劉邦(りゅうほう)は諸侯の軍勢を率いて項羽(こうう)の本拠地である彭城を陥落させます。
漢はこの戦いで大勝利を掴んだことから、天下は劉邦が統一するかと思われます。
しかし項羽の鬼神の如き強さによって彭城は陥落。
劉邦は命からがら逃亡し、滎陽に籠ります。
劉邦の食客・酈食其(れきいき)は劉邦に策を進言。
張良は劉邦に「酈食其の策を採用すれば天下統一不可能になるでしょう」と
反対します。
劉邦は張良の反対意見を採用。
こうして酈食其の策は採用されずにすみましたが、滎陽(けいよう)城攻防戦の状況は
以前厳しい状態のままでした。
前回記事:張良(ちょうりょう)とはどんな人?高祖劉邦の右腕として活躍した天才軍師(1/3)
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この記事の目次
- 項羽に和睦を提案
- 奇才の持ち主陳平の策
- 天才軍師と奇才の軍師からの進言
- 滎陽(けいよう)城から脱出
- 身代わりになった紀信死す
- 彭越(ほうえつ)の援軍
- 滎陽城陥落
- 三国志ライター黒田廉の独り言
- 別働隊の編成
- 滎陽城奪還と食糧庫を占領
- 広武山(こうぶざん)での対峙
- 和睦交渉が始まる
- 侯公の活躍により漢楚決戦は終わりを告げる
- 三国志ライター黒田廉の独り言
- 天才と奇才からの進言
- 和睦(わぼく)の約束が破られる
- いざ固陵の地へ
- 固陵の戦い
- 韓信と彭越が来ない理由
- 各国の軍勢が集結
- 99戦全敗だが100戦目にドでかい勝利を得る
- 四面楚歌の歌が流れる
- 楚漢戦争の終結
- 自らの功績を誇らない
- 神仙術にハマる天才軍師
- 劉邦の後継を巡る争い
- 天才軍師のアドバイス
- 三国志ライター黒田廉の独り言
項羽に和睦を提案
劉邦軍は粘り強く項羽軍の猛攻をしのいできました。
しかし俑道(兵糧などを輸送する道)を度々破壊された事で、兵糧が欠乏し、
武器も不足。
落城寸前の危機的状況に陥ります。
こうした状況を打開するため、劉邦は項羽に和睦を提案します。
しかし項羽は劉邦の提案を受けず、再び猛攻を開始します。
奇才の持ち主陳平の策
劉邦軍には二人の軍師が存在します。
一人は劉邦の右腕として活躍している天才軍師張良。
もう一人は項羽にはじめ仕えていましたが、進言しても策を用いてもらえない
事から劉邦に仕える事になった奇才の持ち主・陳平(ちんぺい)
この陳平が劉邦に策を進言します。
「王よ。このままでは遠からず滎陽は陥落します。陥落する前に
項羽の陣営に離間の計を仕掛けましょう。」と進言。
劉邦は陳平の策を採用し、彼に大金を持たせます。
陳平は項羽軍の猛将である竜且(りゅうしょ)や鍾離眜(しょうりばつ)など
将軍達の悪口を項羽の耳に入れます。
さらに項羽の軍師である范増の悪口を流し、
項羽と范増の信頼関係を崩しにかかります。
将軍達や范増の悪い噂を流し続けた結果。項羽は将軍達や范増を疑い始めます。
そしてついに項羽軍の軍師であった范増を追放させることに成功。
陳平が献策した離間の計は大成功を収めますが、
滎陽城の状況は変わりませんでした。
天才軍師と奇才の軍師からの進言
離間の計は成功するも状況が変わりませんでした。
そのため奇才と天才の両軍師は知恵を振り絞り、劉邦へ策を進言します。
二人は「王よ。項羽に降伏の使者を送り、その後王の身代わりをしたて、
東門から項羽の元へ向かわせます。
その間、王は西門から出て、宛の地へ向かうのがよろしいと思います。」と
進言します。
劉邦は自らの身代わりを立てる事に反対。
しかし二人の軍師は、嫌がる劉邦へ幾度も説得します。
劉邦は苦悩の末、二人の軍師の説得を受け入れ、この策を採用。
まず張良と陳平は身代わりに相応しい人物を探します。
この策を聞いた紀信(きしん)は自ら劉邦の身代わりとして
名乗りを上げます。
こうして身代わりを見つけ、策を実行に移します。
滎陽(けいよう)城から脱出
劉邦は項羽に降伏の使者を送ります。
項羽は劉邦の降伏を受け入れます。
劉邦は紀信に「お前を身代わりに立ててすまない。
お前の命は無駄にせず、天下統一をして、お前の息子や家族は必ず
わしが養ってやる」と告げます。
紀信は劉邦の言葉に感謝し、東門から出ていきます。
そして劉邦も西門から密かに脱出。滎陽城から南下し、宛城へ入ります。
身代わりになった紀信死す
紀信は東門から出て項羽の陣営に着きます。
項羽は紀信を見ると「誰だ。貴様。」と睨み付けます。
紀信は「漢王の身代わりとしてきた紀信だ。貴様はわれらの王の
策にハマったんだよ。馬鹿が。」と項羽を罵ります。
項羽は紀信の罵詈雑言に激怒。彼を煮殺します。
項羽は漢王が宛に逃げ込んだと知ると、滎陽攻撃を止め、
宛に進軍を開始します。
彭越(ほうえつ)の援軍
項羽は宛(えん)城に着くと、すぐに包囲陣を形成します。
しかし項羽は宛城の包囲を解き、東に向かって進軍します。
なぜ項羽は宛城の包囲を解いて東に向かったのでしょう。
この時東の地では元盗賊である彭越(ほうえつ)が暴れまわっていました。
項羽の領地を守っていた将軍は彭越にボロ負け。
項羽はこのまま彭越を放置すれば、彼が好き放題暴れまわり、
領地を削りとられると考え、彭越を討伐するため、東に向かいます。
劉邦は項羽軍が居なくなった隙をついて、成皋城(せいこう)へ逃げ込みます。
劉邦は成皋城で軍整え、滎陽城の救援に赴く予定でした。
滎陽城陥落
項羽軍は彭越軍を破ると、再び滎陽城を包囲します。
滎陽城に残る周苛(しゅうか)らの諸将は項羽が城を包囲すると、
兵の士気を高め、抗戦。
しかし圧倒的攻撃力をもつ項羽軍の前に滎陽城は陥落します。
この時滎陽城守っていた周苛は項羽軍に捕えられます。
項羽は周苛が現れると、彼の面構えを気に入り「われに降伏すれば、
領地と上将軍の位を与えようと。」と自らに仕えるよう、誘います。
しかし彼は「誰がお前なんかに仕えるか。俺は沛公以外に仕える気はない」と
罵ります。
項羽はこの言葉を聞き、激怒。彼も紀信と同じように
煮殺されてしまいます。
こうして滎陽城は陥落し、項羽は劉邦を倒すべく
成皋城へ向かいます。
三国志ライター黒田廉の独り言
長く苦しかった滎陽城の攻防戦は幕を閉じます。
この時敗北寸前まで追い詰められた劉邦ですが、一ついい事がありました。
それは陳平を見出した事です。
彼も張良と同じく、今後の項羽との戦いで活躍していく人材の一人となります。
陳平と張良の策によって何とか滎陽(けいよう)城から脱出する事に
成功した劉邦。
その後宛城へ一時的に非難し、成皋(せいこう)城で軍の態勢を立て
直し、滎陽城の救出へ向かう予定でした。
しかし滎陽城は項羽軍の猛攻を受け陥落。
項羽は劉邦との長い戦いに終止符を打つべく成皋城へ進軍します。
別働隊の編成
劉邦は、成皋城で軍の再編を行うと、張良からの献策で
幼馴染の盧綰(ろわん)と劉賈(りゅうか)に二万の軍勢を与え、
楚の領内で暴れまわっている彭越の援護をするように命じます。
盧綰と劉賈は軍勢を率いて、彭越の援護に向かいます。
その後この二人は彭越と共に楚に備蓄されていた兵糧を焼き、
さらに二人は江南に渡って項羽に味方している諸将を説き伏せ
漢軍に味方する事になります。
滎陽城奪還と食糧庫を占領
劉邦は陥落した滎陽城を奪い返すべく軍を出陣させます。
滎陽城には項羽の武将である曹咎(そうきゅう)らの諸将が、
城を守っておりした。
滎陽城を包囲した漢軍は曹咎を挑発。
曹咎は漢軍の挑発に耐えられず、城から打って出ます。
漢軍は城から打って出た曹咎らを見事に討ち破り、
滎陽城を奪還。
また滎陽城を陥落させると共に、秦の食糧貯蔵庫であった
敖倉(ごうそう)を占領。
劉邦はこうして楚軍に対して反撃の狼煙を上げます。
広武山(こうぶざん)での対峙
劉邦はその後、敖倉から食料を運び出し、広武山へ移動します。
そして頑強な防御工事を施し、楚軍を待ち受けます。
項羽は劉邦が山の上に陣取った事を知り、広武山の対岸に陣を築きます。
漢軍と楚軍の対峙が続く事数か月、楚軍に兵糧が少なくなってきます。
そして項羽は劉邦に「われらが互いに争っている事で民が大いに
迷惑している。二人で一騎打ちを行い、
この戦に終止符を打とうではないか。」と呼びかけます。
しかし劉邦は「私は力で勝負を決するのではなく、
知恵で勝負を付けたい」と伝え、項羽の挑発には乗りませんでした。
その後幾度も項羽は劉邦を誘い出しますが、中々乗ってきません。
項羽はそのため配下に「次に劉邦が現れたら、弓で射撃しろ」と
命じます。
そして項羽の呼びかけに応じ、劉邦が現れます。
その時、項羽は配下に命じ、弓を劉邦目掛けて発射。
弓は劉邦に直撃し、彼は幕舎の中に消えていきます。
和睦交渉が始まる
劉邦は項羽の配下から弓を放たれるも、かろうじて一命を取り留めます。
こうして再び劉邦と項羽の対陣は続きます。
劉邦軍は自らの領地が近い事から兵糧の輸送がしやすく、
比較的早く兵糧が集まり、兵糧庫には溢れんばかりの兵糧が集まって
来ます。
一方、項羽の陣営は兵糧輸送の距離は遠い場所から行っておりました。
また輸送途中には彭越や盧綰(ろわん)、劉賈(りゅうか)らの軍勢から
攻撃され、少ししか兵糧は届きません。
劉邦は毎日陣営を見回ると同時に、対岸の項羽陣営の兵士が
日に日に弱っていることに気が付きます。
そこで人質となっている妻と父の返還の使者として陸賈(りくか)を派遣。
しかし人質の返還交渉は失敗に終わります。
侯公の活躍により漢楚決戦は終わりを告げる
次に侯公と言う人物に人質返還の使者として赴かせます。
侯公は項羽に気に入られ、人質返還に応じると共に、和睦にも応じます。
和睦の後の領地について、侯公と項羽の間で話し合いが行われ、
広武山の下を流れる鴻溝(こうこう)から東を項羽の領地。
西側を劉邦の領地として経営していく事が決まります。
こうして長きにわたる漢と楚の戦いは終結を迎え、
一年以上項羽軍に捕えられていた
劉邦の妻呂雉(りょち)と彼の父親が解放されます。
三国志ライター黒田廉の独り言
天下統一を決める決勝戦である楚と漢の長い戦いは終結します。
この時代劉邦と項羽が暴れまわったせいで、中国に住んでいる民の
数は大幅に減少。
始皇帝が治めていた頃より、民の数は減少していきます。
民衆も早い所この二人の群雄の戦いを終わりにし、
争いのない平和な時間を作って欲しいと願っていたことでしょう。
漢と楚の長きにわたる戦いも終盤に差し掛かってきました。
広武山で漢と楚の両軍が対峙。
数か月にも及ぶ対峙の末、ついに両軍は和睦を結びます。
こうして両軍の死闘は終わり、後は山を下りて漢と楚は
それぞれの領地に戻るはずでした。
しかし天才軍師張良と奇才の持ち主陳平が策を進言する事で、
時代は大きく動き出します。
天才と奇才からの進言
劉邦は項羽との和睦が成立すると、軍をまとめて、広武山から下山しようとします。
しかし彼の前に張良と陳平が現れます
二人は「王よ。漢は今、天下の三分の二を保有し、諸侯も皆われらに従って
おります。反対に楚は兵糧も少なく、兵も疲労困憊です。
今こそ楚の軍勢を背後から襲い、項羽を討つべきです。」と
進言します。
劉邦は二人に「盟約を反故にして、勝てるか。」と問い返します。
すると張良が「盟約を守り、互いの領地に戻って英気を養って再び
決戦すれば、まず漢軍に勝ち目はないでしょう。しかし、今ならば項羽に
勝てる可能性は残っております。天が項羽を滅ぼせと、王に与えた最初で
最後のチャンスだと思います。」と力説します。
劉邦は彼らの進言を受け入れ、項羽との和睦を破り、楚軍の背後を突くべく
項羽軍の後を追います。
和睦(わぼく)の約束が破られる
項羽は下山し、本拠地である彭城へ進軍を開始します。
兵は皆疲れ、今にも倒れそうな気配を出していましたが、
項羽は兵の間を周り、激励します。
そんな中伝令が項羽の元へ走りこんで「大王。漢軍が我らの背後から
ついて来ます。」と告げます。
項羽はこの報告を聞き激怒。
劉邦軍を迎撃するため本陣を率いて、軍の後ろへ向かいます。
いざ固陵の地へ
劉邦は広武山を降りた後各地の王(斉の韓信・魏の彭越)らに使者を送り、
固陵の地で合流して、楚軍を叩こうと呼びかけます。
そのため固陵に着くまで楚軍に攻撃をあえて行わず、
背後から追いかけるだけにとどめます。
そして漢軍はついに固陵(こりょう)の地に着きます。
この地で楚軍に勝利すべく陣を敷きますが、
韓信の斉軍も彭越の魏軍も姿を現しませんでした。
固陵の戦い
項羽率いる楚軍は固陵の地で漢軍を破るべく陣を敷きます。
項羽は陣が完成すると自ら先頭に立って、漢軍へ突撃を開始します。
劉邦は項羽軍の突撃に抗えず、一撃で陣は破壊。
漢軍はすぐに退却します。
韓信と彭越が来ない理由
劉邦はなぜ韓信と彭越が来ないのか張良に聞きます。
劉邦の質問に張良は「彼らに領地を与える言質を与えていないからでしょう。」と
質問に答えます。
さらに張良は言葉を続け「彭越にかつての魏の国を与える事と約束し、
韓信には現在の斉国に加え、陳から海までの地を与えると約束すれば、
彼らはすぐに駆けつける事でしょう」と進言します。
劉邦は彼の進言に従い、彭越には魏国、韓信には陳から海辺までの
広大な領地を与えると約束し、垓下(がいか)の地に結集するように
と書き添えて使者を派遣します。
各国の軍勢が集結
韓信と彭越は劉邦から領地の与えるとの約束をもらい、
垓下へ向けてついに軍を出陣。
また別働隊を率いていた盧綰(ろわん)と劉賈(りゅうか)も項羽軍から
離反した軍勢を加えて垓下へ向かいます。
こうして東西南北すべての方面から漢軍に包囲された
項羽は垓下城へ入城し、今後の事を配下の者達と語り合います。
99戦全敗だが100戦目にドでかい勝利を得る
漢軍と各国の軍は垓下城を重厚に包囲します。
項羽は垓下城から出撃し、韓信軍を攻撃します。
韓信軍は30万の大軍でしたが、項羽軍の猛攻に韓信が率いていた本隊は
一時的に後ろへ下がります。
その後左右の軍が項羽軍に襲い掛かり、再度韓信率いる本隊が項羽軍に
攻撃を仕掛けます。
この攻撃により項羽軍は敗北し、垓下城へ引き上げます。
四面楚歌の歌が流れる
項羽は垓下城へ戻ります。
深夜城外から歌が聞こえます。
項羽はよく耳を澄ますと、聞こえてくるのは楚の歌でした。
項羽はこの歌を聞き、大いに悲しみます。
隣で寝ていた虞美人(ぐびじん)は項羽が悲しんでいる姿を見て
「大王。どうしました。」と聞きます。
すると項羽は虞美人に「今城外から楚の歌が聞こえてきた。
漢は楚を攻略し、この戦いに楚の勇士たちが加わっている。」
と悲しみます。
そして楚の将軍と兵士全員を起こし、別れの宴会を行います。
項羽はこの宴会で楚の将軍と兵士にねぎらいの言葉をかけ、
宴会が終わると、名馬騅(すい)と騎兵800人ほどを率いて
垓下城から逃亡します。
楚漢戦争の終結
張良は垓下から項羽が逃げ出した事を知り、長きにわたる楚漢の争いが
終結した事を感じます。
その後項羽は長江のほとりにある鳥江(うこう)の地で自害。
こうして長きにわたる楚漢戦争が終結。
天下は漢王劉邦が統一します。
自らの功績を誇らない
こうして天下統一を果たし、皇帝の位に登った劉邦は、
昔から付き従ってくれた功臣達へ恩賞を授けていきます。
一番功績があったのは簫何(しょうか)であるとし、
宮殿に入るときは通常、剣を預け、小走りで動かなくてはならないのですが、
簫何が宮殿で劉邦に会う際には、剣を預けず、
ゆっくりと歩いて良いという特典と広大な領地が授けられます。
こうして他の諸将は領地をもらいます。
そしてついに張良の番がやってきます。
劉邦は彼に「好きな土地を選んでよいぞ。」と気前の良さを見せます。
しかし張良は「陛下と最初にあった留の地を降されば、他には何も
望みません。」と伝えます。
劉邦は「あんなちっぽけな土地でよいのか」と念を押します。
張良は彼の言葉に頷きます。
こうして張良は曹参(そうしん)や簫何と比べるとかなり少ない
領地である留の土地をもらいます。
諸侯は張良が留の土地をもらった事から彼を留侯と呼ぶようになります。
神仙術にハマる天才軍師
張良は留侯になると、病と称して引きこもりになります。
彼は引きこもりになっている間、食べ物を絶ち、特殊な呼吸法で体を軽くする
神仙術にハマり、仙人になろうと志していました。
張良が仙人を目指していた頃、漢では劉邦の後継を巡って争いが
起きていました。
劉邦の後継を巡る争い
しかし彼が神仙術にハマっている間、劉邦の死期が近づいてきておりました。
劉邦は死期が近づくと、皇太子である劉盈(りゅうえい)を廃し、
新たに側室の戚氏(せきし)との間に生まれた劉如意(りゅうにょい)を皇太子に
立てようと計画します。
天才軍師のアドバイス
呂雉は皇太子廃立の計画を知り、天才軍師張良の元に助けを求めてきます。
張良は彼女へ「陛下がお招きできなかった学者を劉盈様につけることが出来れば
危機を乗り越えられるでしょう」と助言します。
呂雉はすぐに張良の助言に従い、劉邦の招きに応じなかった学者を劉盈に
付けます。
劉邦は自らの招きに応じなかった学者が、
劉盈の招きに応じたことに驚き、学者たちに「なぜわが招きに応じず、息子の招きに
応じるのだ」と質問します。
すると学者たちは「皇太子様には礼があり、民にも慕われているので、
皇太子様の招きに応じました。失礼ですが、陛下は横暴で、礼を欠いておりますので
われらは今まで招きに応じようとはしませんでした。」とはっきりと言います。
劉邦は「分かった。盈を支えてくれ」と言い、その場を去らせます。
劉邦は自らの招きに応じなかった学者が、劉盈の招きに応じたことに感心し、
皇太子の変更は行われる事無く、二代目皇帝には劉盈が就くことになります。
呂雉は皇太子の廃立が無くなった事への感謝を張良に述べ、
彼の息子も厚遇されます。
そして稀代の天才軍師張良は高祖劉邦の死から9年後に亡くなります。
三国志ライター黒田廉の独り言
劉邦はこうして天下統一を果たします。
もし張良と出会う事が無ければ天下統一はなかったかもしれません。
彼の死後息子の張不疑(ちょうふぎ)は不敬罪で所領は没収されます。
しかし彼の子孫は生き延び、三国志でも蜀の将軍となった
張翼(ちょうよく)が彼の子孫と言われております。
また日本でも彼は有名で、江戸時代には彼の肖像画が何枚も発売され、
大人気であったそうです。
「今回の楚漢戦争時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」
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