「織田がつき羽柴がこねし天下餅座して喰らふは徳の川」の狂歌ではないですが、
父から兄へ、そして兄から弟へと遺業を受け継ぎ、最終的に東呉(江南)の統一を果たして呉帝国を建てた孫権(そんけん)
誰よりも長生きし、相応の繁栄を極め、三国の中で最後まで残ったと思えば、実は一番の勝ち組かもしれません。
そんな人物だけに逸話も色々とありますが、特に印象的なのはその容姿。
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孫権像は、三国志演義で作られたイメージ
そう、世間一般的に知られる孫権像といえば、「青い眼に紫のヒゲ」という、
およそ東アジア人っぽくない外見的特徴を備えています。
しかしこれは実際には正規の歴史書である『三国志』と、
その『三国志』を題材にした時代小説『三国志演義』の記述が混ざって作られたイメージなのです。
では実際、孫権はどのような姿をしていたのでしょうか。
実際の孫権の容姿は?
正史『三国志』呉書の注釈には、孫権の風貌は「角ばった顎に大きな口」だったと記されています。
更に赤壁の戦いの後の合肥の戦いにおいて、曹操軍の猛将・張遼より「紫色の髭を生やした“長上短下”の将軍」とも言われています。
“長上短下”は一般的に「胴長短足」と訳されています。
つまり、エラ顎・大口・紫ヒゲ・胴長短足、これが孫権の公式データです。
ところが『三国志演義』第 29 回の孫権初お披露目シーンでは「碧眼に紫色のヒゲ」と描写されています。
29 回タイトルにも『碧眼児』の二つ名が踊り、この回で孫権=碧眼のイメ ージが強くアピールされていることが分かります。
この「碧眼」、一体全体どこから出てきたのでしょうか。
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1 仙人?
『三国志演義』には孫権の他にも「碧眼」が 3 人登場します。
一人は第 1 回で太平道教主・ 張角が山中で会った仙人。
一人は第 81 回で劉備が会った青城山の西に住む仙人。
一人は第 89 回に諸葛孔明が南蛮遠征中の山中で会った仙人。
なんと孫権を除いてみんな仙人です!
しかし失礼ながら孫権にはイマイチ仙人要素が見受けられません。
仙人は関係ないのでしょうか?
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2 異民族?
『三国志演義』第88回の南蛮遠征で登場する現地人は「青眼・黒い顔・黄色い髪・紫色の ヒゲ」といういでたちです。
また『漢書』西域伝の注釈によると、烏孫人(ソグド人系) は西域人の中でも際立って「青眼・赤ヒゲ」であると言います。
南蛮はともかく、烏孫国 は漢帝国とは政略結婚などで良好な関係にありましたから、民間人にも混血はいたかもしれません。
ということは孫権にも異民族のDNAが?
しかし「青眼」は実は黒目の表現にも使われ、
「碧眼」と同じものと限らないので、判断が難しいところです。
3 デフォルメ?
正史呉書の孫権紹介には、「目に“精光”があった」とあります。
つまり爛々とした眼光ということで、孫権の非凡ぶりをアピールしているのですが、
この“精光”が拡大解釈されて碧眼になったとか?
史実にはない「碧眼」設定が『三国志演義』の作者とされる羅貫中の独断と偏見による創作なのか、
それとも『三国志演義』執筆の参考となった底本や民間伝承の中にすでにあったのかは不明です。
ただ「碧眼」という発想自体は、史実の「紫ヒゲ」=異民族という先 入観の可能性も否定できないものの、
何かしらの特別感を意図したものであったのは間違いありません。
答えは作者のみぞ知るですが、すべては『三国志演義』における諸葛孔明の
「この人相は只者ではない」というセリフに尽きるのかもしれません。
ところで、特別という点でもう一つ気になるのは正史の胴長短足だったという部分です。
実はこれ、全く同じ表現が蜀書の注釈にも出てきます。
それが劉備の孫権に対する「孫将軍は“長上短下”で“其難為下”である。私は二度と彼と相見えることはない」というコメントです。
ここの“長上短下、其難為下”については「孫権は目下を軽んじるから臣下になったら苦労する」と解釈している本もあります。
ところが『隋書』によると高祖文帝・楊堅も“長 上短下”だったとあり、短所というより、むしろ良い意味として使われていますし、張遼 のセリフもどちらかといえば「只者ではない」というニュアンスです。
そういえば劉備も正史の蜀書に「腕を垂らすと膝下まで届いた」という謎な体格で紹介されていますよね。
胴長短足はマイナーな体形だった
わざわざ特徴に挙げるくらいなので、胴長短足はマイナーな体形だったのでしょう。
時代によって価値観が違うのは当然で、現代では腰の位置が高くて膝下が長い人が持て囃されても、
大昔には真逆だったとしてもおかしくはありません。
それが褒め言葉だったのかは分かりませんが、少なくともこうした“異相”が英雄の証と見なされたのではないでしょうか。
また、“難為下”が「下々を苦しめる」や「下になる=配下として仕えがたい」と読めるため、ネガティブな翻訳に繋がったのでしょうが、
“難為下”にはもう一つ、「下にする=従わせるのは難しい」という読み方もできます。
それは丁度、曹操のところに逃げてきた劉備を、
曹操のブレーンである程昱が「不為人下(誰かの下に収まるような人間ではない)」 と評した
(『三国志』魏書)のに似ています。 張遼や劉備が言う“長上短下”が、単なる身体的特徴ではなく、
孫権の威容や英雄性を指 したものだと考えれば、“其難為下”も「彼を配下に降すのは難しい」とするのが文脈的に自然かもしれません。
大体、劉備のような強かそうな人物が、誰かの下につくことを想定しているよりは、自分が上に立つこと前提で語っている方が、
何となく“らしい”ようにも思われます。
更に言うなら、“長上短下”が本当に胴長短足なのではなく、当時流の「存在感半端ない」 の慣用表現だとすれば、
忠実に胴長短足とせず、現代の感覚に合わせた「存在感半端ない」 孫権像を思い描くのも一つの再現方法かもしれません。
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