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袁術は実はベトナムに逃げ延びていた!?【歴史ミステリー】

この記事の所要時間: 359




チンギス・ハーン wiki

(画像引用元:チンギス・ハーン wikipedia

 

あの英雄は実は生きていて、別の地に落ち延びていたという話は古今東西たくさんあります。

日本では源義経が有名ですね。

命からがら東北から中国大陸に渡り、チンギス・ハーンとなって覇業を成し遂げたという説です。

眉唾物の話ではありますが、もしかしたら……という可能性も確かにあります。

他にも豊臣秀頼が九州の地に逃げ延びていた。なんていうのもありましたね。

本能寺の変の織田信長もそうですが、

遺骸が見つからないとそういった「実は生きていた」という噂が必ず広まるものです。




袁術は建安四年(199年)六月に病死

袁術の最後

 

帝位を自称した袁術(えんじゅつ)は四方から漢軍に攻められ、

味方に見限られ、失意のなかで病死したと云われています。

逆賊として周囲から攻められたのであればその遺骸は晒されて然るべきですし、子孫も首を刎ねられるはずです。

しかし袁術の遺骸がそのようなことになったという記述は見当たりません。

 

孫策

 

血族の袁胤(えんいん)が棺を守り、劉勲(りゅうくん)を頼り、

その劉勲の城は孫策(そんさく)の計略によって落とされています。

つまり袁術の遺骸と妻子は孫策の手に渡ったわけですが、手荒なことにはなっていません。

それよりも袁術の娘は孫権の後宮に迎えられていますし、

息子の袁耀(えんよう)は呉で郎中として用いられています。




袁術は実は生きていた!?

袁術くやしいいい

 

もし病気になった袁術を孫家が密かに亡命させていたとしたらどうでしょうか。

東は劉備(りゅうび)がいますし、北には曹操(そうそう)がいます。

西にも劉表(りゅうひょう)と逃げ場がありません。

南の孫策も表面上は漢の皇室の意向に従って袁術とは疎遠になっています。

密かに逃がすのならばさらに南しかありません。

そこは山越族が暮らしている揚州南部よりはるか南になります。

そこならば漢の威光も微かなもので、袁術は静かに養生できるのです。

 

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南の地、ベトナム

袁術

 

かつて漢の武帝は広東からベトナムにかけての政権、南越を滅ぼしました。

そしてこの地に交趾(こうし)、九真(きゅうしん)、日南(にちなん)の三郡を設置したのです。

 

袁術

 

これが広大な領土を誇る交州の南部になります(ベトナム北部)。

ちなみにベトナムの南部にある林邑(りんゆう)や

扶南(ふなん)などの国は早くからインドの影響を色濃く受けており、

中国文化の南進はここまでは至っていません。

 

関連記事:後漢末から三国時代の世界情勢はどうなってたの?

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交州の支配者・士燮(ししょう)

袁術 伝説 ゆるキャラ

 

交州刺史である朱符(漢の驃騎将軍として活躍した朱儁の息子)が地元の反乱で命を落とすと、

それに代わって交州を支配したのが豪族の士氏です。

交趾の太守であった士燮は、この混乱を鎮めるために

自分の弟ら血族を交州の各地の郡の太守にしていきます。

そして南海(現在の香港近郊)、合浦(現在の南寧近郊)から交趾、

九真に至る広大な領土を治めていくことになるのです。

それがはたして西暦何年のことなのか定かではありませんが

(186年から199年にかけてのことだとされています)、

実はこの士燮こそ生き延びた袁術だった……ってことはないでしょうか。

 

建安五年(200年)より攻められる

建安五年、混乱を制した士燮に襲い掛かってきたのが荊州の劉表です。

袁術が生きていたことに気が付いたのかもしれません。

果たして士燮は劉表の軍勢をどう撃退したのでしょうか。

一説には士氏は漢帝国に朝貢し、その支配を認められ、劉表の侵攻を未然に防いだとあります。

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

200年と云えば孫策が暗殺された年でもあります。

後継者の孫権(そんけん)が士燮に援軍を出したのかもしれません。

どちらにせよ、210年には交州および士氏一族は完全に孫権(そんけん)に降伏します。

210年と云えば周瑜の病死した年です。

 

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どちらの民族にも慕われた士燮

中央の混乱を逃れて交州に来た名士には許靖や劉巴といった

面々の他に袁忠や袁微といった袁家の人間も多くいたようです。

士燮(ししょう)は土着の民と移民のどちらからも慕われる政治を施したと云われています。

 

曹丕

 

文帝(曹丕)が崩御した226年(呉歴・黄武五年)に士燮は亡くなり、

交州は呉国の直接支配となります。

そこまではほぼ独立国家として成り立っていたのです。

実は「仲」という国だったかもしれませんね。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂

 

さすがに士燮=袁術は無理があったでしょうか。

士燮ファンの皆さまには申し訳ありません。

でもチンギス・ハーン=源義経が成り立つなら、士燮=袁術もありかなって思いませんか?

だとすると袁術はみんなから好かれる人望の持ち主だったことが証明されるのですが……。

 




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この記事を書いた人:ろひもと理穂

ろひもと理穂

■自己紹介:

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。

自分でも袁術主役で小説を執筆しています。

 

■好きな歴史人物:

曹操、蒲生氏郷

 

■何か一言:

袁術は凄いひとだったかもしれませんよー!!

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