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名士を憎んでいる公孫瓚や、体育会系の劉備の所だと悲惨な事に
すべての群雄が曹操のように名士を愛したわけではありません。
何しろ、底辺から這い上がった群雄にとって、名士は自分より、
著名な人々であり、土地で尊敬を得ており、また結託すれば、
自分に牙を剥きかねないライバルでもあるのです。
事実、あれだけ名士を取りこんだ曹操も、兗州を領有した頃は、
名士層の取り込みに失敗して、徐州に陶謙(とうけん)を攻めている最中に、
兗州の殆どの城が離反しています。
また、公孫瓚(こうそんさん)は、
「名士なんかハナから信用しないもんねー、わし」と切り捨て、
自分と気が合いそうなゴロツキや、下層身分で、実力主義の人間だけを採用しました。
これは、いいアイデアに思えますが、名士層の協力なしに、
広大な北方の統治は難しく、結局、名士層の取り込みに熱心だった
袁紹に滅ぼされています。
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劉備はともかく、名士を敵対視している関羽や簡擁が怖い
また、劉備(りゅうび)は名士を軽んじたわけではないのですが、
義勇軍の傭兵隊長から出発しているので、生死を共にした人間は
下層階級の人物が少なくありませんでした。
それは、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)、簡擁(かんよう)のような人々です。
張飛は、身分が高い人にヘーコラする部分があるので扱いやすいですが、
関羽や簡擁は、身分の高い名士を「いけすかねぇ連中」と憎んでいます。
特に簡擁は、劉備の下に入った頃の諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)を
気に食わなく思っていて、孔明が休息しようと、長椅子のある場所まで行くと、
椅子を独占し、決して孔明に譲ろうとはしませんでした。
関羽も目下の人間には優しい代わりに、目上や同僚には非常に厳しく、
そのあまりの厳しさに、士仁(しじん)と縻芳(びほう)は体罰を恐れて、
孫権に降ったと言われる位です、もうね、パワハラまがいですよ、関羽。
天下の奇才、孔明でさえ、こんなチンピラ扱いですから、
あなたが劉備軍や公孫瓚軍に就職した場合、かなり辛い思いをする
可能性は否定できません。
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社長の権限が弱く、派閥争いが激しい呉
「魏は、出来る連中ばっかりでノルマがきつそうだし、
蜀は、規則でガチガチで息苦しそうだな・・
どうせなら、呉みたいな南の国で、楽しく
のんびり仕事が出来たらいいな」
あなたは、もしかすると、そう思い呉へ就職しようと思ったかも知れません。
確かに南方の呉は疫病こそ怖いですが、気候は温暖だし、
人は古の楚人の風合いで性格は激烈だけど、一度、打ち解ければ家族も同然です。
しかし、呉は、魏や蜀と違い、トップダウンではなく、
豪族の連合政権の意味合いが強く、激しい派閥争いがあります。
孫権(そんけん)の晩年に起きた二宮事件など、呉臣が真っ二つに分裂して、
お互いを罵りあうという凄惨な状態が起きました。
「私は中立でーす、、」という態度は呉では許されないのです。
また、仕えるべき孫権は、酒乱であり、
飲めない部下に無理に飲酒を勧める悪癖があります。
仕事とプライベートは別にしたい人は、仕事の後に続く、
地獄の孫権の酒宴に、とてもついていけないでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがでしたか?家柄さえあれば自動的に出世できそうな三国志の時代も
乱世という事もあり、結構、大変だという事がお分かり頂けたでしょうか?
なんだかんだで、どの時代も就職は一生を左右する重大事で、
楽勝な就職とお気楽な人生は、よほどのアッパークラス以外には、
なかったのかも知れませんね。
本日も三国志の話題をご馳走様・・