マイナーな事においては、魏と蜀を引き離す呉の武将達、
でも、それは、ただ、呉の武将達の業績が知られていないだけで
彼等が、魏や蜀に劣るというわけではありません。
そこで、今回は、呉で活躍した将軍達を一挙に十二人紹介します。
この記事の目次
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- 十二神将 1 苦しい時こそ呉を支えた忠臣 程普徳謀(ていふ・とくぼう)
- 十二神将 2 実は三公に招聘された品行方正な人 黄蓋公覆(こうがい・こうふく)
- 十二神将 3 だんだん地位が上がる晩成型 韓当義公(かんとう・ぎこう)
- 十二神将 4 質素で勤勉で私心がない男 蒋欽公奕(しょうきん・こうえき)
- 十二神将 5 無数の傷は忠義の証 周泰幼平(しゅうたい・ようへい)
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- 十二神将 6 孫権が何度も遊びに来るナイスガイ 陳武子烈(ちんぶ・しれつ)
- 十二神将 7 命がけの働きで漢を震わす 董襲元代(とうしゅう・げんだい)
- 十二神将 8 スターだがトラブルメーカー 甘寧興覇(かんねい・こうは)
- 十二神将 9 忍耐強い常識人武将 凌統公積(りょうとう・こうせき)
- 十二神将 10 曹丕を騙した剛胆な名将 徐盛文嚮(じょせい・ぶんきょう)
- 十二神将 11 大酒飲みで粗暴だが頼れる男 潘璋文珪(はんしょう・ぶんけい)
- 十二神将 12 最後まで呉を支えた忠臣 丁奉承淵(ていほう・しょうえん)
- 三国志ライターkawausoの独り言
十二神将 1 苦しい時こそ呉を支えた忠臣 程普徳謀(ていふ・とくぼう)
エントリー№1は、孫堅の時代から仕える古参の名将である程普です。
そのマイナーぶりから、光栄三国志では初期は散々な能力値でしたが、
事実は、満身創痍になりながら孫堅(そんけん)を助けて、呂布(りょふ)、
華雄(かゆう)、胡軫(こしん)の董卓(とうたく)の看板武将を撃破して、
董卓を長安に遷都させた人物。
さらに孫堅の非業の死の後も、袁術(えんじゅつ)に飼われながらも
孫策(そんさく)を盛りたて無茶をする孫策が賊に包囲された時には、
たった二騎で大声を挙げて敵陣に突っ込み、孫策を救ったことさえあります。
しかも、孫堅の死後も、孫策の死後も、これを見限らず、
むしろ忠誠心を発揮して呉を支え続けたのです。
主君が苦しい時に支えになるのが忠臣なら程普を超える忠臣は、
魏や蜀にもそうはいないでしょう。
関連記事:程普(ていふ)ってどんな人?孫家三代に仕え、数々の戦を戦った孫呉の重鎮
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十二神将 2 実は三公に招聘された品行方正な人 黄蓋公覆(こうがい・こうふく)
エントリー№2は、蜀の黄忠(こうちゅう)に並ぶ筋肉ジジィ、黄蓋です。
黄蓋は父が早くに亡くなり貧しい生活を余儀なくされますが、
志を捨てずに勉強し郡の役人になった後は、考廉に推挙されて、
三公の呼び出しを受ける程で、そのままでも役人として出世できそうでした。
しかし、孫堅のスカウトを受けると、官途を捨て、その配下になりました。
つまり、黄蓋はただの筋肉ジジィでは無かったんですね。
黄蓋は自ら甲冑をつけて武器を振るって敵と戦い、部下にも優しかったので
信用は絶大で、また異民族の統治にも公平に臨んだので行政官僚としても有能でした。
赤壁の戦いでは、周瑜(しゅうゆ)と共同して戦い火攻めを提案し、
曹操軍を撃滅する大金星を挙げます。
この時、流れ矢に当たって水中に転落、瀕死の状態で引き揚げられたものの、
黄蓋とは気づかれず、しばらく船の上で放置されるなど危うく死ぬ所でしたが
大声で同僚の韓当(かんとう)を呼んで救ってもらい九死に一生を得ています。
十二神将 3 だんだん地位が上がる晩成型 韓当義公(かんとう・ぎこう)
韓当は、黄蓋や程普と同期ですが、最初の頃はパッとせず下働きだったようです。
しかし、弓馬の術にすぐれたのでメキメキと腕を挙げていき、
何度も無茶をやらかしつつも手柄を立てたので、孫策が江東三郡を制覇する頃には
同期の程普と同様に、兵2000と騎馬50頭を任せられています。
韓当は、劉繇の討伐、黄祖討伐にも活躍し赤壁では、流れ矢で川に落ちた
瀕死の黄蓋を発見して手当てするなどナイスアシストを決めます。
そして、関羽(かんう)を撃破した南郡攻略戦、さらには夷陵の戦いでも活躍し、
その後、隙を突いて攻めてきた曹真(そうしん)も撃退しています。
これらの手柄から昭武将軍兼領冠軍太守+都督も兼ねて石城侯に封じられます。
晩年には呉のグリーンベレーである敢死隊や解煩兵1万を率いて戦い、
丹陽郡の賊を撃破しています。
韓当は自分勝手な部分がなく命令を遵守し、チームワークを重視して戦い、
歴代の君主の覚えもよく理想的な将軍として生涯を終えました。
十二神将 4 質素で勤勉で私心がない男 蒋欽公奕(しょうきん・こうえき)
蔣欽は、孫策の時代から同僚の周泰(しゅうたい)と共に仕えましたが、
それは孫策が袁術の客将だった頃で、呉ではかなりの古株と言えます。
他の呉将と同様に、蔣欽の最初の仕事は異民族討伐がとても多いのですが、
これを、そつなくこなして手柄があり討越中郎将に任命され、
経拘と昭陽を奉邑として与えられます。
蔣欽は生まれが貧しかったせいか、学問をする暇がなく、
聡明でも学力はない状態でしたが、呂蒙と同様に、
その事を孫権に指摘されると、猛勉強し呂蒙(りょもう)と並んで
「世の人々の手本」と讃えられました。
また、蔣欽は人間に奢りがなく、手柄を立てても謙虚で、
自分ばかりでなく、妻や母にも質素な身なりをさせていたので、
気の毒に思った孫権が、妻母宛に豪華な衣服を送り、
恥ずかしい思いをさせないように配慮した事もありました。
かつて徐盛(じょせい)と部下の処罰を巡りトラブルになり、
徐盛は、その事で蔣欽が自分を恨んでいるのではないか?と疑っていましたが、
濡須口の戦いにおいては、むしろ蔣欽は徐盛を褒めその私怨を仕事に
差し挟まない態度で尊敬を集めました。
十二神将 5 無数の傷は忠義の証 周泰幼平(しゅうたい・ようへい)
周泰は蔣欽と同期ですが、孫策により弟の孫権の補佐につけられます。
これは孫権が屈強な周泰を気に入り、自分に欲しいと言ったからだと
言われています。
ある時、孫権は山越討伐で油断して、手薄な本陣に奇襲を受けました。
側にいた周泰は、孫権を守ろうと獅子奮迅の働きをして重傷を
十二も受けてしまいます。
何とか、賊を追い返した周泰ですが、その場で意識を失い、
生死の境を彷徨いますが何とか回復します。
孫策は、この事に深く感謝し周泰を穀県の長にしました。
その後、孫権の時代になると、周泰は、ますます信頼され、
黄祖(こうそ)討伐、赤壁の戦い、濡須(じゅす)では曹操軍と激闘します。
このような事から、周泰は昇進を重ねて平虜将軍、濡須督になります。
しかし、徐盛と朱然(しゅぜん)は、周泰を軽くみていて、指揮下に入っても、
それに従おうとはしませんでした。
これを知った孫権は、自ら徐盛、朱然、周泰を呼んで宴会を催し、
席上で周泰の服を脱がせて、傷だらけの体を見せ、いかに周泰が、
呉の為に生命を懸けて戦ったかを涙ながらに力説しました。
それを見た徐盛と朱然は態度を改め、周泰の命令に服すようになりました。
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