三国志におけるハイティーン主従と言えば、孫策(そんさく)と周瑜(しゅうゆ)です。
両者は同い年であり、家も近くて、後には大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)の
姉妹を妻に貰い、義兄弟になったなど、仲良くなった逸話満載なんですが、
果たして両者の仲が良いのは、ただ意気投合しただけの偶然だったのでしょうか?
この記事の目次
孫堅が家族を富春から舒に移した時から孫家と周家の付き合いが始まる
孫策と周瑜の関係は、孫堅(そんけん)の時代から始まっています。
孫堅は反董卓連合軍に参加すると家族を富春(ふしゅん)から周家がある
舒(じょ)に移しているからです。
そこで、孫家の人々は、住処を探すわけではなく、極く自然に
富豪の周家から家を分けてもらって生活するというように
いきなり親戚付き合いのような関係になり、必然的に年齢が同じだった
孫策と周瑜が仲良くなるという筋になります。
しかし、いかに周家がお人よしだとしても、いきなり孫家に家を一つ
貸すような事をするものでしょうか?
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周家が孫家と仲良くするメリットが無い・・
孫家は、兵法家の孫武(そんぶ)の子孫を自称していますが、何の裏付けもありません。
そもそも孫武の子孫が不詳なので、それをイイ事に便乗しただけでしょう。
そんな孫家が、周景(しゅうけい)、周忠(しゅうちゅう)が三公の一つ、
太尉にまで出世した周家と結ぶのはメリットがあると言えます。
しかし、周家は、何の家柄もない孫家と仲良くする理由が無いのです。
家を一つ丸ごと貸してしまう親密さは、どうして生まれたのでしょう?
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またしても孫堅の背後に袁術の影が・・
ここで、孫堅が家族を富春から舒に移した時期が問題になります。
西暦190年と言えば、孫堅が袁術(えんじゅつ)の暗黙の依頼で
南陽郡太守の張咨(ちょうし)を殺して、袁術がその後釜に座り
孫堅を豫(よ)州刺史に上奏しています。
ここで孫堅は四世三公の袁術の配下になるわけですが、
この袁家と周瑜の周家は実は長い関係があるのです。
後漢の和帝の時代、周瑜(しゅうゆ)の祖である尚書令(しょうしょれい)
周栄(しゅうえい)は、袁術の祖である袁安(えんあん)と密接な
主従関係にあったようです。
さらに時代が下ると外戚(がいせき)である梁冀(りょうき)の専横の時代、
例の太尉、周景は袁湯(えんたん)の推挙を受けているというケースがあり、
また、周・袁両家とも董卓(とうたく)によって皆殺しの目に遭っているなど、
反董卓で相互に連携していた節が見られます。
つまり、孫堅が袁術の配下になるに至り、袁術は、
「家族の事は舒県の周家に預けるがいい、わしから話は
つけておく」とお墨付きを与えていて、袁術のツテで
孫策以下の孫家は、舒に移動してすぐに周家を頼った
そういう事では無かったのでしょうか?
周家としても、長い繋がりがある袁家の依頼は、
受けて置くべきという打算から見ず知らずの孫家に
家をまるごと一軒貸すというような優遇をした
という事ではないかと思います。
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父、孫堅の死により、周家との関係は一時途絶える
その証拠として、孫堅が敗死するや孫家は居候できなくなり
孫策は、曲阿(きょくあ)に孫堅を還葬してから江都(こうと)に向かっています。
孫堅―袁術の繋がりから優遇していた周家とすれば、
もう孫堅が死んだとあっては、優遇する理由はないわけです。
しかし、孫策は、袁術と不仲になっていた陶謙(とうけん)に迫害され
結果として袁術配下の丹陽(たんよう)郡大守で母方の叔父の呉景(ごけい)の下につき、
その後は、再び、父同様に袁術の客将となる事になります。
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孫策の活躍を見て、周瑜は自発的に孫策を尋ねる
ここで、袁術の指揮下に留まった事で、孫策は何とか
拠って立つ地盤を手に入れ、袁術に吸収されていた
孫堅配下の韓当(かんとう)、黄蓋(こうがい)、朱治(しゅち)、
程普(ていふ)のような古参の武将を取り戻す事に成功するのです。
そこで、個人的な付き合いで孫策に心服していた周瑜は、
孫策を尋ね、その配下になったのだと考えられます。
ここでは、もう孫堅―袁術ラインは関係なく、
孫策の覇者の器を見抜いた周瑜が自分の意思で
馳せ参じたという事でしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
このように孫策、周瑜の友情は、純粋に孫家に周家が家を貸したという
事ではなく、元々は、孫堅の上役である袁術のツテにより、
周家が見ず知らずの孫家の面倒を見たという事が起点ではないかと思います。
そうでないと、何の接点もない孫家に周家が一方的に真心を尽くすのは
さすがに不自然だと思うからです。
しかし、そこで育まれた周瑜と孫策の友情は本物であり、
また、家族ぐるみの付き合いには、最初は打算でも後には、
本当に仲良くなる心の通い合いがあったのでしょう。
だからこそ、呉夫人は周瑜を兄として仕えなさいと
孫権(そんけん)に言いつけ周瑜は、孫策の下に
馳せ参じたのだと思います。
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