魏には、張遼(ちょうりょう)、楽進(がくしん)、于禁(うきん)、
徐晃(じょこう)、張郃(ちょうこう)、朱霊(しゅれい)という六大将軍がいます。
蜀の五虎将軍にも匹敵する存在ですが、于禁はその六名にカウントされ、
戦功抜群の武将として評価されているのです。
しかし、于禁は彼の落ち度としては余りに厳しい出来事に遭遇し終わりを全うできず
無念の最期を遂げてしまうのでした。
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この記事の目次
泰山鉅平に産まれ、最初は鮑信に仕える
于禁文則(うきん・ぶんそく:?~221年)は泰山の鉅平に産まれます。
青年に達した頃、中国全土で黄巾賊が蜂起して世の中は騒然としてきます。
同じ頃、大将軍何進(かしん)の命令を受けて、鮑信(ほうしん)が泰山で
義勇兵を募集し、于禁は当初、鮑信の兵卒として従軍しました。
于禁は、鮑信の兵卒として頑張りますが、そこでは芽が出ませんでした。
しかし、西暦192年、大将である鮑信は曹操(そうそう)と共に青州黄巾賊と戦い、
不意を突かれて襲われ、あえなく戦死してしまいました。
于禁は仲間と共に曹操に仕える
大将を失い分解していく鮑信の軍勢ですが、故郷に帰る気の無かった于禁は、
自分の仲間を集めて仮の兗州牧になった曹操に自分を売り込みます。
于禁は最初、王朗(おうろう)という将軍に仕え都伯(とはく)という地位につきました。
この都伯というのは軍隊で下から3番目の地位で20~50名の部下を率いる
小隊長程度のランクです。
しかし、王朗という将軍は、何故か于禁を気に入り曹操に推挙します。
「于文則は知勇兼備で才気があり、大将軍の器でありますぞ」
それを聞いた曹操は、興味を持って于禁を呼び寄せ、少し話をしてみると
なるほど王朗の推薦に違わない名将の素質があります。
そこで、曹操は于禁を軍司馬(別動軍隊長)に任命して千の兵を任せます。
昨日まで部下50名の人間に、いきなり1000名任せたのです。
さすがは曹操、太っ腹ですが、于禁も重圧に負けずに与えられた軍を指揮、
徐州攻略戦では広威城を陥落させる手柄を立てます。
曹操は喜び、陥陣都尉(かんじん・とい)という名称を于禁に与えました。
陥陣とは敵陣を落すという意味で勇猛な武将に与える称号です。
呂布、黄巾賊、袁術討伐、宛平定で手柄を立てる
西暦194年、曹操が徐州を攻略している隙に軍師の陳宮(ちんきゅう)が
張邈(ちょうばく)と共に離反して呂布(りょふ)を引き込んで兗州を攻略すると
于禁は、引き返した曹操と共に濮陽(ぼくよう)で呂布と戦い、二つの陣営を破り、
その後二年に渡り地道に離反した兗州の城を攻略して領地を奪い返します。
次には、汝南に拠点を置いた黄巾賊の劉辟(りゅうへき)と黄邵(こうしょう)の
数万の軍勢を撃破して、生き残りをことごとく捕虜にします。
さらに袁術(えんじゅつ)軍の橋蕤(きょうずい)が陳の劉寵(りゅうちょう)を
滅ぼして陳城を攻略しようとすると、曹操の命令で軍を率いて包囲殲滅しました。
197年には宛の張繍(ちょうしゅう)を降しています。
こうして、于禁は数々の手柄を立てて負けなかったのです。
因縁の青州兵とトラブル・・
張繍は、美女鄒氏(すうし)を巡る確執で曹操の隙を突き
軍師、賈詡(かく)の進言で謀反します。
曹安民(そうあんみん)を失う大損害を受けて逃げるしかなくなりますが、
その中で曹仁(そうじん)と于禁の軍は崩れませんでした。
于禁は敵の追撃が緩むと隊列を整え、陣太鼓を鳴らし粛々と行軍しますが
途中で裸になってトボトボと進む自軍の兵数十人を目撃します。
どうしたと尋ねると、兵士達は
「青州兵の連中が混乱を良い事に我々から掠奪したのです」と訴えます。
青州兵とは、元々は黄巾賊でしたが、曹操に帰順して主力になっている部隊です。
強いのですが、それを良い事に味方からも掠奪する事がありました。
「おのれ、黄巾賊めが!味方から掠奪するとは許し難し」
于禁は激怒して、青州兵の陣営に攻撃を仕掛けてこれを斬り伏せました。
びっくりした青州兵は、散り散りになって曹操の下へ逃げていきます。
元々、鮑信に仕えていた于禁は、主君を殺した青州兵を良く思っては
いなかったようで、今回の攻撃もそれにも原因があるようです。
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