改革者や革命者が常に社会の賞賛を浴びるとは限りません。
私達が自覚している以上に、人間社会とは保守的であり、その時宜を掴まないと
異端や過激派のレッテルを貼られて社会的に抹殺される事も少なくないのです。
今では、誰も疑わない地動説を天体問答で一般に周知したガリレオが
神を冒涜したとして当時の教会に異端審問にかけられ自説を撤回したのは
「それでも地球は回っている」というセリフと共に著名です。
特に欧州における教会の権威のように旧体制が長く存続したケースでは、
それを倒す事や否定する事には、命賭けのリスクが伴うのが普通なのです。
まだ漢王朝で消耗しているの?第二回は、誰よりも早く漢王朝を見限り、
新しい王朝を築いた群雄、袁術公路を取り上げます。
前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓
この記事の目次
最も漢王朝の恩恵に浴した袁家に産まれた袁術
袁術公路(えんじゅつ・こうろ?~199年)は後漢王朝の名門
汝南袁氏の本流に産まれたエリートでした。
同じく汝南袁氏の袁紹(えんしょう)は袁術の異母兄とも従兄弟とも言われます。
袁家は後漢初期の袁安(えんあん)から三公に就き、以後100年近くの間に
子孫が四世三公になり多くの官僚の出世に関わったので、中華全土に隠然たる
影響力がありました。
董卓(とうたく)はかつて、自分の意に沿わない袁紹を暗殺しようとした時に重臣に
「袁紹を追いつめて武装蜂起されたら、たちまちの間に大軍を集めて脅威になる」と
諫言され、その力の強さに驚き、一転して渤海大守に任命、懐柔しようとしています。
事実、間も無く袁紹は反董卓の旗を掲げ推されて軍団の盟主になりますが、
その旗の下に集まったのは20万と言われる空前の大軍でした。
董卓への反感もありますが、汝南袁家の出身の袁紹が盟主である事も
無縁ではありません。
後に新しい王朝を立てて、皇帝を自称した袁術は、もっとも漢王朝に恩恵を受けた
存在でもありますが、隠然たる官僚の親玉であった事もこの逸話から分ります。
王族を除けば、最も天下に近い一族とは、こういう意味なのです。
当初は漢王朝を支える側だった袁術
袁術は、後に皇帝に即位した前科があるので、歴史書では悪逆非道と書かれ、
あたかも最初から漢王朝を見限っていたかのような描写がされます。
例えば、呉書の記述では、袁紹が韓馥(かんぷく)と共謀し王族の劉虞(りゅうぐ)を
擁立して東帝とし、西で董卓が擁立している献帝に対抗しようとした時に袁術は、
“内心、袁術は漢王朝を見限っていて、公義を盾に袁紹の劉虞擁立には反対した”と
袁術の内心を勝手に慮った事が書かれていますが、これを裏付ける史料は
何も存在しません。
逆に、袁紹の劉虞擁立の意見書に対する反論文や、袁術の配下の孫堅(そんけん)が、
尊皇心に厚く、熱心に董卓と戦い、陽人城で呂布(りょふ)や胡軫(こしん)を
撃破して、董卓を長安に退却させた事、孫堅が董卓の暴いた皇帝の陵墓を
修復した事などは記録があります。
少なくとも、この時点の袁術は、別に皇帝を立てて、献帝を無視しようと考えた
袁紹や韓馥よりは、尊皇心があったと言えるでしょう。
反董卓連合軍の瓦解と袁紹との対立
西暦190年、2月、董卓が西の長安に強制遷都して洛陽を灰にした事で、
反董卓連合軍のモチベーションは極端に落ちてしまう事になります。
元々、マジメに戦っていたのは、曹操(そうそう)や鮑信(ほうしん)王匡(おうきょう)
そして孫堅程度で、それ以外は、どうにか戦わずにやり過ごして自軍を温存し、
あわよくば恩賞にありつこうというセコイ打算があった連中なのです。
袁紹と韓馥による劉虞擁立もこの頃の話で、
「もう戦わないで、東帝、西帝どっちに付くか?で仲間を集めて
あっちが自然崩壊するのを待とうぜ?」というノリでした。
さらに袁術と袁紹は、劉虞擁立以外にも、自分に味方する人間を
あちこちの州刺史として送り合う事でも衝突します。
豫州刺史は、袁術が虎の子の孫堅に与えた地位ですが、そんな事は関係ない袁紹は
同じく、豫州刺史として周昻(しゅうこう)を派遣し、袁術は孫堅に援軍を与えて、
これを武力で追い払っています。
この抗争で絶縁した袁家の巨頭二人は、公孫サン、曹操、劉表(りゅうひょう)
陶謙(とうけん)というような群雄を巻き込んで戦いを激しくしていきます。
すでに、西に引っ越した長安の献帝には、それを止める力はなく、
董卓も「勝手にやりあえ」と関心をしめさず、中華は群雄割拠の時代に戻りました。
本拠地を移しながら独立への野望を育てる
袁術は、董卓により後将軍に任命された時に、後世に不忠の臣と記録される事に戦慄。
洛陽から逃亡し、孫堅が南陽大守の張咨(ちょうし)を殺害し大守が不在になったのに
乗じ、袁家の故郷であるアドバンテージを利用し南陽大守になります。
南陽は郡とは言え、人口100万で豊かでしたので、袁術は5万の精兵を
保持できましたが、西暦191年~192年にかけて、袁紹派の劉表と交戦し、
襄陽の戦いで虎の子の孫堅を戦死させてしまいます。
戦上手だった孫堅の死は、戦下手の袁術の前途に暗い影を落とす事になります。
それでもめげない袁術は、193年には、大軍を擁して南陽郡を出発
兗州の曹操を討ちに大遠征を敢行しますが、少し前に曹操が凶暴な青州黄巾賊を
自軍に組入れた事実を知りませんでした。
こうして、散々に打ち破られた上に、劉表に補給路を遮断され南陽を奪われたので、
袁術はやむなく水路を利用して揚州に落ちのびました。
ここで、孫堅の甥である孫賁(そんほん)などの助力を得て、州刺史の
陳温の死につけこみ寿春を落して、ここを本拠地とし揚州に勢力を広げていきます。
この頃には、袁術も漢王朝の忠臣顔をしている余裕などなく、食うか食われるかの
弱肉強食の領土拡大に血道をあげていく事になります。
揚州の支配権の確立と献帝死亡説
寿春に入った袁術ですが、ここは漢王朝が劉繇(りゅうよう)を送り込んでいました。
劉繇は州都の寿春に袁術が居座っているので入れず、曲阿に本拠地を置きます。
ここには孫賁や呉景(ごけい)がいましたが、
彼等が袁術から官位を授けられている事で邪魔になり、
樊能(はんのう)、張英(ちょうえい)に命じて攻撃して追い払いました。
形式上は、劉繇が正式な揚州刺史ですが、袁術だってここを手放せば、
流浪の身に逆戻りですから、元より返すつもりなどありません。
こうして袁術は、自らは徐州の新しい支配者となった劉備(りゅうび)を攻撃しつつ、
劉繇に曲阿を追い出され恨みがある孫賁や呉景に劉繇を攻撃させ揚州の覇権を争いますが、
朝廷は新たに振武将軍、揚州牧の地位を加え劉繇を援護してきました。
さらに、劉繇の配下には、太史慈(たいしじ)、孫邵(そんしょう)
是儀(ぜぎ)を始めとする同郷の人物、徐州の陶謙と不和になって逃れてきた
許劭(きょしょう)、薛礼(せつれい)、笮融(さくゆう)といった人物が集まり、
数万人を擁する大勢力になっていたので、袁術の旗色は悪かったのです。
西暦195年、孫堅の忘れ形見の孫策(そんさく)が、叔父の呉景の援軍を願い出ます。
袁術は「そのまま兵を率いて独立するつもりではないか?」と疑いますが、
僅か1000名の軍では、どうせ何も出来まいと思い直し援軍を許しました。
ところが、途中で義兄弟の周瑜(しゅうゆ)などと合流した孫策軍は6000名になり
呉景や孫賁を指揮下に入れて大活躍して劉繇を撃破しました。
結局、この辺りから孫策は江東で、独立色を強めるのですが、劉繇を追い出して、
一応の揚州支配を確立し、徐州から劉備を追いだした呂布(りょふ)とも和睦した袁術は
呉景や孫賁を郡大守に任じて支配を固めていきます。
そして同じ頃、長安から脱出して洛陽に向かっていた献帝の一行が
曹陽県で、追撃してきた李傕(りかく)・郭汜(かくし)の連合軍に大破され、
献帝も消息知れずという献帝死亡説が袁術の耳に届いたのです。
漢王朝の没落と揚州支配の確立が袁術に自信を与えた
揚州にまがりなりにも基盤を確立し群雄としての自信をつける一方で、
これまで仕えていた漢王朝の没落を見た袁術は、いよいよ漢の天運は尽きたと
考えるようになり、皇帝即位の野心を隠さなくなりますが、この時は群臣に
反対されて、思い留まる事になります。
西暦196年の正月、死んだと思われた献帝が無事に李傕・郭汜の軍勢を振り切り、
黄河を渡って安邑に到着したという情報が、義理の弟の大尉、楊彪(ようひょう)を
通じ袁術にもたらされます。
さらに、そこに曹操の配下の曹洪(そうこう)が献帝の身柄を確保する為にやってくると、
董承(とうしょう)の要請を受けた袁術は萇奴(ちょうど)を派遣して、
これを阻止させています。
袁術が献帝の身柄を曹操から守った理由とは・・
ここでは奇妙に矛盾している出来事が起きているように思えます。
なぜなら、献帝死亡説で大喜びして、皇帝になろうとした袁術が、
献帝存命という知らせを受け取ると、萇奴(ちょうど)を派遣し、
董承や楊奉(ようほう)といった献帝の臣と共に曹操が迎えに寄こした曹洪を
撃退しているからです。
結局、袁術は皇帝即位より献帝の身柄を守った忠臣だったのでしょうか?
それとも皇帝即位と漢の忠臣の間を揺れ動いていたのでしょうか?
いや、それはむしろ逆で、袁術は萇奴を派遣する事で
献帝を寿春まで呼び寄せようとしていたのではないか?と思えます。
何故か?決まっています、献帝を軟禁して強引に禅譲を行わせる為です。
袁術の軟禁好きは、よく知られていて、劉和(りゅうわ)や秦宜禄(しんぎろく)
馬日磾(ばじつてい)などを軟禁して帰さず有利な便宜を図らせています。
新しい王朝を開く上で禅譲にまさる穏便な方法はないでしょう。
袁術だって好き好んで他の群雄と摩擦を起こしたいわけではないので、
献帝に禅譲を受けて、文句なしに後継王朝を樹立するのが理想だった筈です。
しかし、袁術の思惑は外れ、献帝の重臣達は内輪もめを起こし、
董承が曹操を洛陽に引き込んで献帝を売り飛ばしてしまいました。
この時、反曹操派の楊奉や韓暹(かんせい)は袁術の元に逃れて帰順しています。
献帝が曹操の下に落ちた事で袁術の未練は断ち切れた
献帝が曹操の下に落ちた事で、袁術の皇帝即位は不可避になりました。
プライドの高い袁術は、四世三公の自分が宦官の孫ごとき曹操に、
勅命と称して命令を下されるという事が我慢ならなかったのです。
西暦197年の正月に袁術は天命が降りたとして皇帝に即位し国号を仲にします。
その手始めに、袁術は徐州の支配者である呂布と縁組を結ぼうとしますが、
呂布は曹操派の陳珪(ちんけい)と陳登(ちんとう)により説得され変心、
袁術の使者を斬り娘を取り戻しました。
これに袁術は激怒し、大軍を持って呂布を攻めますが、再び陳珪・陳登が動き
袁術軍の後詰だった楊奉や韓暹を寝返らせ、袁術軍は挟み撃ちに遭い大敗しました。
この辺りまでが、袁術の栄光で以後は食糧に困り、小国陳に融通を頼むと断られ
その報復に陳王劉寵(りゅうちょう)を殺害して陳を乗っ取りますが、
曹操がやってきたので袁術は自軍に迎撃を任せて、自身は寿春に退却、
ここで袁術軍は曹操に敗れ、ほとんど完全に崩壊してしまうのです。
以後、没落した呂布が袁術を頼ろうと再び縁談を纏めようとしますが、
袁術はそれを罵るだけで、救援に向かう力もありませんでした。
全てにおいて早すぎた袁術の失敗
西暦199年、全てを失った袁術は疫病と戦乱で廃墟になった寿春を放棄して、
従兄弟の袁紹の保護を求めようと一族をまとめて動き出します。
この時、袁術は帝位を袁紹に譲ると同時に、
「すでに後漢の命運は尽きていて、曹操如きにどうこう出来るものではない
天下は北方四州を抑える袁紹の手にありその瑞兆しも至る所にある」
という内容の手紙を送っています。
しかし、袁術の動向を知った曹操は、劉備と朱霊(しゅれい)を派遣して
その一行を攻撃し袁術は寿春にUターン、炎天下で水も食糧もないまま憤死しました。
袁術を無謀な男と批判するのは簡単です、彼は世論というものを考えず、
自分が即位すれば、かならず靡くものがいる筈だと考えていて、
国家の成立には、ある程度の正統性と天下を従わせる武力、公平で機能的な
人材登用及び、時代のニーズに合致した政治のシステムが必要であるという事を
無視していました。
ですが、それでも袁術が挙げた、漢王朝終焉の狼煙は
新しい時代の始まりを力強く告げるものであったと思うのです。
袁術の皇帝即位以後、各地の群雄は名実ともに僭主でありながらも、
世論の反発を恐れ、注意深く野心を隠しながらも同時に
漢は既に終わった事を強く自覚するようになります。
まだ漢王朝で消耗しているの? 2 ポイント
・どうして、袁術は皇帝を名乗って即位したのか?
1 袁術は当初、献帝を擁護する側だった。
もっとも董卓を攻撃したのは袁術配下の孫堅。
2 董卓が長安に拠点を移した事で袁紹との領土争いが激化
南陽郡を失うなど辛酸をなめつつも、群雄として成長する。
3 苦労の末に揚州を抑えた頃に献帝の死亡説が流れ
求心力のなくなった漢王朝を見限る。
4 献帝を寿春に迎えて禅譲を迫る計画が失敗、
曹操が献帝の身柄を抑え曹操の下風に立つ事を拒否した
袁術は皇帝に即位。
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