三国志は曹操が土台を作り、息子・曹丕(そうひ)が建国した魏。蜀の益州を治め、魏に対抗する国を作った劉備の蜀。孫堅、孫策から多くの物を譲り受けて建国した呉の孫権。この三つの国が乱立した時代が三国志の由来と言われております(狭い意義の場合)。黒田レンが所属するはじめての三国志には、蜀の劉備や孔明に関する記事がたくさんあります。
しかしたくさん記事がありすぎて、蜀の始まりがいつなのか、いまいちピンと来ない人もいるのではないかなと思います。そこで今回、はじめての三国志のはじめての試みとして、正史三国志などを参考文献とし、三国志の蜀の歴史(蜀建国~五丈原の戦いまで)を分かりやすく年表にしてみました。これを見れば三国志の蜀漢の始まりが一発でわかるのではないのでしょうか。
この記事の目次
- 建安二十四年(219年):漢中ゲット!!劉備は漢中王へ。「定軍山の戦い」
- 建安二十四年(219年):関羽が亡くなって、劉備激怒!!
- 建安二十六年(221年):劉備、初代蜀皇帝に
- 章武元年(221年):義弟・張飛死す。悲しみを乗り越えて孫呉討伐へ
- 章武二年(222年):陸遜の火計によって全軍壊滅「夷陵の戦い」
- 章武三年(223年):劉備死す
- 建興三年(225年):孟獲を七度捕まえ、七度放した南蛮征伐「七縱七禽の故事」
- 建興五年(227年):天下の名文・出師の表を提出
- 建興六年(228年):第一回北伐戦開始するも・・・・。「街亭の戦い」
- 建興八年(230年):魏軍が漢中へやってくる
- 建興九年(231年):新兵器を携えて祁山へ「祁山の戦い」
- 建興十二年(234年):最後の北伐!!「五丈原の戦い」
- 三国志ライター黒田レンの独り言
建安二十四年(219年):漢中ゲット!!劉備は漢中王へ。「定軍山の戦い」
劉備は曹操軍の重鎮・夏侯淵(かこうえん)率いる漢中守備軍と定軍山において、決戦を行い夏侯淵を討ち取り曹操軍を撃退。その後曹操は大軍を率いて劉備軍が駐屯している定軍山を包囲。曹操は定軍山の包囲が完了すると劉備軍へ攻撃を仕掛けますが、定軍山を陥落させることができませんでした。
曹操は兵糧が少なくなった事などの理由から撤退。劉備は曹操軍を打ち払った事で漢中をゲットすることに。そして219年秋。劉備は漢中の占領行政を行った後、関羽や張飛、孔明、馬超らの家臣達から懇願される形で漢中王へ就任することに。
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建安二十四年(219年):関羽が亡くなって、劉備激怒!!
関羽は219年に劉備が漢中王になった時、荊州を攻略するため、魏の樊城へ向けて攻撃を開始。順調に行っていた関羽の荊州攻略作戦は同盟国・呉の裏切りによって失敗に終わり、孫呉の軍勢から攻撃を受けてしまいます。そして関羽は孫呉の軍勢に討ち取られてしまうのでした。
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建安二十六年(221年):劉備、初代蜀皇帝に
建安二十六年(221年)。魏の曹操の跡を継いだ曹丕は後漢王朝から禅譲(ぜんじょう)を受け、魏の初代皇帝へ。この報告を受けた劉備は諸葛孔明、黄権(こうけん)達から「皇帝になってください」と要請。劉備は家臣達の要請を受けて、曹丕が皇帝に就いた翌年、初代蜀漢の皇帝として君臨することに。そしてここから蜀漢独自の年号が使われることになります。
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章武元年(221年):義弟・張飛死す。悲しみを乗り越えて孫呉討伐へ
章武元年(221年)。劉備の弟である張飛が部下の反乱に遭い、殺害されてしまいます。劉備は張飛が殺害された事を非常に悲しみます。そして章武元年。劉備は孫呉討伐戦を開始。蜀漢軍は、孫呉の軍勢に勝利を重ね続け、荊州近辺にいた異民族も蜀漢へ、帰属してきます。大軍となった蜀漢軍は破竹の勢いで荊州の中心部へ向けて進撃していくのでした。
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章武二年(222年):陸遜の火計によって全軍壊滅「夷陵の戦い」
章武二年(222年)。この年はなんと記念すべきにゃんの年でした。三国時代の猫愛好家は猫祭りを開催して、天下の平穏を願ったとか。
しかしこの記念するべきにゃんの年。蜀漢軍は、夷陵の地で孫呉の総司令官・陸遜(りくそん)の火計によって壊滅的なダメージを受け、大敗北してしまいます。劉備は益州の白帝城へ帰還することができましたが、疲労のため病にかかってしまいます。
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章武三年(223年):劉備死す
章武三年。蜀漢皇帝に君臨した劉玄徳。夷陵の戦いで陸遜の秘策に大敗北したことがきっかけで病にかかってしまい、亡くなってしまうのでした。劉備は遺言として丞相・諸葛孔明へ劉禅を支えて欲しいとの遺言を残します。孔明は泣きながら劉備の遺言を受け取り、蜀を支えていくことを決意。
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建興三年(225年):孟獲を七度捕まえ、七度放した南蛮征伐「七縱七禽の故事」
諸葛孔明は蜀の国力増強に努め、南方で反乱を起こした異民族を征伐するため、遠征を開始。孔明はこの遠征で異民族の大将であった孟獲(もうかく)を七度捕まえ、七度放します(七縱七禽の故事)。この結果、孟獲は心から蜀に服従。こうして孔明の南蛮征伐は大成功に終わるのでした。
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建興五年(227年):天下の名文・出師の表を提出
諸葛孔明は南蛮征伐後、内政をしっかりと固め、魏を討伐するべく漢中へ向かって進軍を開始。孔明は漢中へ旅立つ前に劉禅に「出師の表」を上奏。出師の表は後の中国の歴史において「これを読んで泣かなければ不忠の臣」と言われるほどの名文です。機会があれば一度読んでみてはいかがでしょうか。孔明は出師の表を劉禅へ上奏した後、魏を討伐するために20万の軍勢で出陣し、漢中に駐屯して北伐の準備を行うのでした。
建興六年(228年):第一回北伐戦開始するも・・・・。「街亭の戦い」
孔明は蜀漢軍を率いて漢中から出陣し、北伐を開始。諸葛孔明が北伐の目標とした所は天水をはじめとした四郡を確保することでしたこの目標を達成するための前線拠点として、祁山(きざん)を攻略。その後魏の救援軍を塞き止めるため、馬謖(ばしょく)を大将として街亭へ向かわせますが、魏の張郃(ちょうこう)率いる軍勢に大敗。この知らせを聞いた孔明は蜀漢軍を率いて撤退していくのでした。
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建興八年(230年):魏軍が漢中へやってくる
魏は張郃、司馬懿、曹真の三人に軍勢を預けて蜀へ侵攻。諸葛孔明は李厳(えいげん)を漢中に駐屯させ、孔明自ら軍勢を率いて出撃します。こうして蜀漢軍と魏軍の直接対決が始めると思いきや、大雨が漢中近辺を襲ってきます。この大雨は一ヶ月以上も降り続くことに。魏軍はこの大雨のせいで蜀漢軍へ攻撃を仕掛けることができずに撤退していくのでした。
建興九年(231年):新兵器を携えて祁山へ「祁山の戦い」
諸葛孔明は魏軍を退けた翌年、再び祁山へ向けて出陣していきます。孔明の北伐には糧食や武器などの輸送面において欠点がありました。孔明は一生懸命輸送面の問題を解決する為悩みぬいた結果、糧食や武器などを簡単に運搬する木牛を完成させます。
そしてこの新兵器を携えて再び祁山へ出陣。孔明は輸送面の問題を解決し、祁山の戦いで行われた魏軍との戦いで大勝利。孔明の北伐が初めて実を結ぼうとしていたにも関わらず蜀漢軍は退却することに。蜀漢軍が退却することになった理由は蜀の国内から届くはずの兵糧が、不足したからでした。
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建興十二年(234年):最後の北伐!!「五丈原の戦い」
諸葛孔明は231年に大勝利した北伐戦から蜀の国力を充実するため、北伐を控えて内政に目を向けることに。そしてみっちりと内政を行って国力を充実させた後、再び北伐を開始します。この孔明はこの北伐戦では、新兵器・流馬を用いて兵糧輸送の問題点を改善。
そして諸葛孔明は五丈原に軍勢を駐屯させ、魏軍と対峙することになります。魏軍総大将・司馬懿は蜀漢と戦うことなく、長期戦の構えをとります。孔明は魏軍が長期戦の構えをしてきても兵糧が欠乏しないよう、五丈原で屯田を開始。この結果、両軍は戦闘することなく長い対陣を続けることになるのでした。
だが諸葛孔明は病にかかっており、対陣が100日を過ぎた頃、亡くなってしまうのでした。蜀漢軍は孔明が亡くなったため、撤退していくことになり、魏軍も蜀漢へ猛追撃することなく引き上げていくのでした。
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三国志ライター黒田レンの独り言
はじめての三国志では、三国志の歴史をざっくりと記した物はありますが、このように蜀に特化した年表は今までなかったので、今回三国志が初めての方でもわかりやすいようにざっくりとした年表を作ってみました。三国志の歴史を深く知っている方からしたら、全然物足りないかもしれません。この年表の目的は三国志初心者のために制作したので、物足りない面はご容赦ください。
参考:ちくま学芸文庫 正史三国志 井波律子著など
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【北伐の真実に迫る】