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袁紹の評価が残念な6つの理由

2018年1月3日


 

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官渡の戦い曹操(そうそう)に敗戦する前まで、天下に一番近かった男、袁紹本初(えんしょう・ほんしょ)。しかし、彼の人気は、曹操はおろか、劉備(りゅうび)孫権(そんけん)にさえ劣り、事によってはB級群雄の扱いを受けかねない低評価です。

 

北方謙三風ハードボイルドな袁紹

 

では、どうして、袁紹の人気は低いのでしょうか?他の群雄と比較して、その人気の低さの原因に迫ってみたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1 現ボンボンという出自の不人気

 

袁紹は、四世三公の名門、汝南袁氏の御曹司です。つまり現在進行形の大金持ちであり、それは十分にイヤミだと言えます。例えば曹操は、金持ちですけど、宦官の孫というコンプレックスがあります。

 

劉備は中山靖王の子孫ですが、現在は貧乏な筵売り設定、呂布(りょふ)は孤児に近い状態から、這いあがってきたハングリーさという武器があり、元は海運業者の孫堅(そんけん)も、武勲を重ねて這いあがってきたという読者を納得させるサクセスストーリーがしっかり用意されています。

 

同様に金持ちの袁術(えんじゅつ)ですが、彼は、この頃から袁紹に人望で負けていて、誹謗中傷をして何とかプライドを保つというギャグキャラであり、お金と地位があるだけで、実力が無いボンボンというバカにしやすさが、読者人気にプラスに作用しています。

 

こうして、考えると袁紹は、地位も金も実力もそこそこ兼ね備えた中途半端さがあり、そこが不人気なのです。

 

 

2 軍師のアドバイスを無にする

 

袁紹の不人気の大部分は、彼が田豊(でんぽう)沮授(そじゅ)という二大軍師の助言を、天下分け目の官渡の戦いでことごとく無視している点です。別に英雄でなくても、人の話を聞かないヤツは不人気ですが、それを天下分け目の戦いでやってしまう点に袁紹の不幸があります。

 

 

もっとも、袁紹に限らず、呂布の軍師、陳宮(ちんきゅう)や曹操の軍師郭嘉(かくか)、劉備の軍師、諸葛亮(しょかつりょう)も助言を無視された事がありますが、、

 

呂布に従う陳宮

 

例えば、呂布は陳宮の助言を無視しまくり、ついには陳宮に反乱計画を立てられても、陳宮を殺す事も排除する事もなく側に置いています。陳宮もわがままで自分勝手な呂布から離脱する事なく「やっぱ好きやねん」で最期まで付き従う、ここまで行けば美談でしょう。

 

郭嘉が亡くなり悲しむ曹操

 

曹操の場合には、郭嘉の死後、その遺言を無視して孫権を攻めて大敗しますが当の郭嘉が死んでいる事と、曹操が郭嘉の遺言を偲んでみせる事で軍師の助言を無視したというマイナスが上手く美化されています。

 

ブチギレる劉備

 

劉備は最たるケースでしょう、群臣の反対を押し切り、無謀にも、関羽(かんう)の仇討ちという私情で呉を攻めて大敗しますが、それは止むに止まれぬ義兄弟の情として回収されます。ところが、袁紹は、田豊を戦いの方針の違いから投獄した上に、官渡の敗戦の後は、田豊が袁紹の敗戦を嘲笑っているという逢紀(ほうき)の讒言を信じて殺してしまっています。軍師の助言を無視した上に投獄し、さらには嘲笑われているという讒言を信じ殺してしまうという人間の小ささは致命的で、これではメジャーな英雄にはなれません。

 

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陳宮

 

 

3 目をつけた人材に逃げられている

 

英雄の条件は、やっぱりヘッドハンティングの100%ぶりでしょう。狙いをつけた軍師に誠心誠意を込めて通い詰めて落したり、電光石火のフィーリングで登用したりというのは、その軍師が有能であればある程に際立つエピソードになっていくのです。曹操と郭嘉荀彧(じゅんいく)、劉備と諸葛亮などは双方の出会いが、運命までも変えていく劇的な演出がされています。

 

 

逆に、軍師に逃げられるのは最低のカッコ悪さでしょう。袁紹は、曹操軍の二枚看板、郭嘉と荀彧に逃げられているようです。しかもどちらも、袁紹は人物が小さいという理由で断ると言う最悪ぶり、さらには、有名軍師である田豊と沮授との出会いのエピソードもなく三顧の礼はおろか、曹操と郭嘉や荀彧との出会いに比較しても内容が乏しいというのがマイナスに作用しています。

 

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4 暗君に共通する優柔不断が目立つ・・

 

英雄に全く適さない資質があります、それは優柔不断です。これは、凡君や暗君に共通の資質であり、劉禅(りゅうぜん)劉表(りゅうひょう)劉璋(りゅうしょう)何進(かしん)等、滅びた君主や群雄が共通して持っているマイナス要素です。

 

曹操や劉備に比較して、袁紹には優柔不断が付きまといます。特に、官渡決戦では、前哨戦で劉備による曹操領内での後方撹乱に乗じる事が出来なかったり、烏巣襲撃の報を受けても、全力で烏巣を救援するという判断が出来ず、郭図(かくと)と張郃(ちょうこう)の進言を両方採用し、足して2で割るなど最悪の優柔不断ぶりを示して勝利を失いました。

 

 

また、献帝を迎えるべしという沮授の意見を受け入れなかった癖に曹操に先を越されると後悔し、自領に近い場所に献帝の居所を移せと要求するなど未練がましい対応をしています。

 

これは、逃げる時には全てを捨て、妻子まで捨てて逃げるという思い切った?決断をする劉備や、献帝を擁立するように進言されると、即座に決断して曹洪の軍を送る決断力に富む曹操、地位に恋々とせず、己の実力一本を頼りに群雄を渡り歩く呂布匡亭の戦いで大コケして本拠地の南陽を失うも、全てを捨てて揚州まで落ち延び、そこで、寿春を陥れる事で返り咲くというしぶとい所を見せた袁術に比較しても、人物が小さく見えてきます。

 

 

 

5 死に方が地味

 

英雄の要素で外せないのは、派手な最期です。戦国時代で言えば、織田信長の本能寺の変ですね。信頼していた明智光秀に裏切られるや、僅かな手勢で出来る限りの抵抗をし、最期には「是非に及ばず」で寺に火を放ち、壮絶な死を遂げます。

 

本能寺の変の織田信長

 

これは最高にカッコよい死に際であり、部下に叛かれたり、猜疑心に囚われ、些細な罪で部下を処罰したりする晩年のマイナス面を吹き飛ばしてしまいます。しかし、袁紹を見てみると、死んだのは官渡の戦いの時ではありません。それから二年後、敗戦を気に病んで血を吐き、地味に病死します。つまり鮮烈な最期を見せてはいないのです。

 

 

逆に、死に際で大きくマイナスを解消しているのは劉備であり、蜀漢の今後を大きく左右する大敗戦ながら、病床に臥しては素直に反省し、孔明に出来の悪い劉禅と国の命運を託して大往生するという感動のフィナーレを生みだしているのです。

 

劉備の場合には、貧しい筵売りが天下の一角を占めたというスポ根エピソードも大往生にオーバーラップしてきます。大敗戦とはいえ、筵売りから這い上がったと考えれば、それは、十分に報われた人生になるでしょう。

 

 

人生の最期が悲惨なのは、同族の袁術も同じですが、彼の場合は、すべてを失い無一文という突っ込みようが無いほどの哀れさを滲ませている上に、フィナーレの一歩手前の、「は・・はちみつ水飲みたい」という伝説の発言のせいで、全てがギャグになってしまいます。

 

そうなると、何だコイツ、ハチャメチャで面白いヤツじゃんとなり逆の意味で知名度が出てくるわけです。もし、袁紹が官渡の戦いで進退極まり、界橋の戦いで示したような個人的な武勇を振って戦死したなら、袁家にとっては不幸ですが、その人気は多少上昇したでしょうね。

 

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夷陵の戦い

 

 

6 後継者を決められない

 

これは失敗する群雄の典型例と言えます。自分の後継者を決められない、或いは決める前に亡くなってしまう。結果、後継者と目された勢力同士が反目し、最期には内戦になり、全体的に勢力が弱体化するわけです。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

同様の事態には、曹操も陥りかけましたが、渋々ながら曹丕(そうひ)を指名し内乱を阻止できましたし、劉備は後継者を劉禅と決めてブレず、孔明(こうめい)も忠実に劉禅を補佐し続け後継者争いとは無縁です。

 

後継者争いを放置する孫権

 

孫権は三国の一角で、曹操や劉備に大きく離されながらも、№3の人気ですが、彼も晩年には判断力が低下し、二宮の変を引き起こし陸遜(りくそん)をはじめとする数多の名臣を殺している事でマイナスポイントを記録してしまっています。このような意味で、袁紹はどんな考えがあったにせよ、後継者を決められなかった点でマイナス評価は避けられないでしょう。

 

二宮の変

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

このように袁紹は、部下の進言を聞かない、後継者を決められない。死に方が地味、優柔不断、金持ち出身、人材に逃げられるというマイナス面が目に付き、美点が覆いかぶされています。それが、曹操に準ずるような業績を上げながら、その人気が振るわない大きな原因だと言えるでしょう。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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