自分にふさわしい状況や人間関係を得て、いきいきとした様子について「水を得た魚のよう」という表現があります。
実はこの慣用句は三国志での逸話が語源となっています。劉備が水と魚にたとえた諸葛亮との関係について、『三国志演義』をもとに紹介します。
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劉備、軍師を探す
官渡の戦いのあと、劉備ははなればなれになっていた義兄弟の関羽と張飛と合流し、荊州の劉表に保護されていました。
劉表に新野の領主を任された劉備。曹操の勢力を打倒し、漢王朝を再興するにはこれからどうしたらいいかを考えます。そこで気づいたのが人材でした。
確かに劉備の配下には、関羽や張飛、そして趙雲と超一流の武人がそろっています。ただし、武闘派ばかり。知略にとんだ軍師がいなかったのです。
劉備は超一流の軍師を求めて歩き回り、ようやく徐庶という人物を見つけ出します。
徐庶は曹仁の「八門金鎖の陣」をあっさり破ってしまうなど、劉備の期待にこたえます。
しかし、曹操の軍師である程昱の策略により、徐庶は曹操軍に行ってしまいます。徐庶は去り際に、諸葛亮という人物を訪ねるよう劉備に言い残します。
三顧の礼
劉備は、襄陽の庵に住む諸葛亮を軍師として勧誘することに決めます。しかし、1度目ならず2度目までも、諸葛亮は不在で会えずに新野に帰ったのでした。何度も劉備自らが行かなくてもいいのではないかという声も上がってきますが、劉備は次も訪問するときっぱり。
そして、3度目の訪問でついに諸葛亮と対面することができます。これが世にいう「三顧の礼」です。このとき劉備は40代半ば、諸葛亮はそれよりも20歳近く若い年齢でした。
儒教の思想では、年長者が自分より年下の人にこれだけ礼を尽くすというのは、かなり異例のことだったのです。諸葛亮の壮大な「天下三分の計」を聞き、ますます諸葛亮にほれ込んだ劉備。
そして諸葛亮も最大の礼を示してくれた劉備に仕えることを決心したのでした。
水魚の交わり
劉備は軍師として諸葛亮を迎え入れると、四六時中ともに過ごすようになり。面白くないのは劉備を長年支えてきた臣下たち。特に関羽と張飛でした。新参者であるうえ、劉備に3度も足を運ばせた諸葛亮。
しかも本当にそこまでの才能を持った人物なのか疑わしい。どうしてそこまで優遇するのかと2人は不満を口にします。それに対して劉備はこう答えます。
「孔明を迎え入れた今の自分は、水を得た魚のようなものなのだよ。だからそんなことはもう言わないでくれ」兄者がそこまで言うなら、と関羽と張飛は不承不承ながら理解を示します。
赤壁の戦い
諸葛亮という稀代の軍師が加わった劉備軍ですが、すぐに曹操軍が圧倒的な兵力をもって押し寄せてきます。さすがに策略でどうにかできる兵数差ではないため、諸葛亮は、劉表の息子の劉琦が太守を務める江夏に逃げるよう、劉備に進言します。
この提案を劉備は受け入れますが、自分をについていきたいという領民も一緒に連れていくと言います。諸葛亮は足手まといになるのでやめるべきだといさめますが、彼らを捨てていくことは信義にもとると譲りません。
策としては下策だが、この誠実さこそ君主としての美点であると、諸葛亮はあらためて劉備の度量の広さに感服します。諸葛亮の策や、趙雲と張飛の活躍により、劉備軍はなんとか襄陽にたどり着きます。
しかし、いずれは襄陽にも曹操軍が迫ることは必至。そこで諸葛亮は呉と共同戦線を張るために、単独で首都の建業に乗り込み、同盟を締結。何かと理由をつけて自分を殺そうとする周瑜の策略をあしらい、呉軍が赤壁で曹操軍に大勝するアシストをやってのけます。
入蜀
これで曹操軍の勢いをとりあえず止めるできたので、次は天下三分の計を実現するために、中国南西部の蜀を自領とするように諸葛亮は劉備に進言します。同じ劉家だし、自分から攻め入るのはちょっと……、
としり込みする劉備を諸葛亮やほかの家臣たちがなんとか説得。途中、やはり劉備の軍師となっていた龐統が落鳳坡という運命的な場所で命を落とすという出来事がありながらも、諸葛亮が救援に駆けつけて蜀への侵攻を成功させます。
その後、曹操の息子の曹丕が魏の皇帝に即位したことに対抗するため、劉備は蜀の皇帝に即位。諸葛亮は丞相となります。
劉備の死
赤壁の戦い直後から劉備軍と孫権軍の間で争いが絶えなかった荊州。その守備を任されていた関羽が呉の策略によって死んでしまいます。悲憤慷慨した劉備は呉の討伐を決意。
戦うべき相手は魏です、おやめくださいと止める諸葛亮を振り切り、劉備は大軍勢を率いて呉に攻め込みます。
しかし、陸遜を相手に大惨敗を喫し、意気消沈して白帝城で病に臥せってしまいます。
自分の死期が近いことを悟った劉備は、諸葛亮を呼んでこう伝えます。「息子の劉禅に皇帝としての器があったなら、補佐して支えてあげてほしい。
その器がなかったら、お前が代わりに皇帝となれ」また、配下の馬謖は、それほどの能力ではないのに大言を吐くので、重用してはいけないという言葉も遺します。劉備の死後も、諸葛亮は忠義を守って蜀を切り盛りします。
しかし、魏の打倒を目指した第一次北伐で諸葛亮は馬謖を抜擢。その馬謖が街亭の戦いで致命的なミスを犯して、撤退を余儀なくされます。劉備の遺言を思い出し、後悔をする諸葛亮。
それでも軍法を守るために、愛弟子の馬謖を死刑に処したのでした。
三国志ライターたまっこの独り言
基本的に大雑把だけど、会う人会う人を魅了してしまう劉備と、ずば抜けて頭がいいけど、近寄りがたい印象の諸葛亮。やっぱり馬が合ったのではないかとなんとなく思います。
水魚の交わりって、劉備うまいこと言うな!と妙に感心してしまいます。
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