関羽と言えば劉備軍の筆頭将軍、そして曹仁は後に魏の大将軍となる人物。この2人が戦った樊城の戦いはある意味で劉備軍、曹操軍の頂上決戦とも言える戦いでした。
結果はご存知の通り援軍到着まで守りきった曹仁の勝利。一見すると単純な攻城戦に見えるこの戦いですが、実は許昌一帯をも巻き込む大規模な戦です。
そこには正攻法で曹仁を攻めても勝てないとわかっていた関羽の大規模な戦略と、それを読み切った曹仁との知略勝負が隠されていた可能性があります。今回はそんな大一番の裏側を考察していきたいと思います。
曹仁は知略にも長けた万能な武将
まず曹仁ですが、後年のイメージから守りの上手い武将というイメージがありますが、その経歴を見ると攻めて良し、守ってよし、さらには頭脳戦にも長けた智将であることがわかります。
曹仁は若い頃から若者たちを集めて暴れまわるなど統率力に優れていて、曹操の配下に加わった後は別部司馬として独自に部隊を率いて様々な戦に従軍しました。
正史では193年の袁術との戦いを皮切りに陶謙や呂布、張シュウと曹操が親征した主だった戦の多くに先鋒や別働隊として参戦していて、いずれも多くの敵を斬り、捕虜を獲得するなど値千金の働きぶりを見せています。
また、曹操が官渡で袁紹と対峙した際には後方守備に徹して劉備を退けていますし、華北統一後は江陵や襄陽といった南部の要地を任されるようになり、守戦において高い能力を発揮。
他にも高幹が壷関に立て籠もった際に、敵が逃げるための道を用意するように進言し、長らく落とせなかった壷関を降伏させるといったエピソードもあります。
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関羽の大規模な戦略
関羽は陸遜を侮ってしまったものの呂蒙を警戒するなど、名のしれた武将に対しては慎重にことを運ぶタイプです。
曹仁はかつて襄陽に侵攻してきた周瑜を負傷させ、1年余りにも渡って落城を防いだ実績を持っていますし、関羽はその戦いに従軍して北道の封鎖をしているので、曹仁が守備に長けていることは知っていたはず。
そう考えると正攻法では戦が長期化してしまうことは容易に想像できたでしょう。
しかし、そこへ許昌周辺で反乱が頻発するなどチャンスが到来。いずれの反乱も荊州における関羽の威信に呼応したものが多く、関羽と通じていた人も少なくありませんでした。
そうした背景から筆者は、関羽が反乱に乗じてがら空きになった樊城、襄陽を落とし、最終的には許昌まで進軍する作戦を考えていたのではないかと推察します。
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218年、219年に起きた反乱
金イ、耿紀、韋晃、吉本のクーデター・・・献帝に仕えていた耿紀と韋晃が曹操の専横を見かねて起こしたもので、丞相長史の王必を殺害した後に献帝を奉じて劉備に援軍を要請する予定だった。しかし、王必を討ち損じたために鎮圧されてしまう。
侯音の反乱・・・218年末、曹仁支援のために重い軍役を課していた南陽郡太守の東里袞に対して侯音と衛開が起こした謀反。二人は宛城を奪取すると周辺の山賊を扇動して近隣の県を襲撃。
関羽もこれに呼応する予定だったが曹操の命を受けた曹仁がこれを早急に除いたために作戦は失敗に終わる。
魏諷の反乱未遂・・・219年9月に曹操が鄴に戻っておらず、守りも手薄であったこと、関羽が于禁を降し、樊城を包囲していたことから鄴での反乱を企てるが、共謀相手として誘った陳禕が曹丕に密告したために未然に防がれる。
孫狼の反乱・・・陸渾という異民族の長だった張固が漢中に派遣する人夫を徴発しようとしたことから百姓たちが反発。孫狼をリーダーとして反乱を起こし、近隣の県や村を襲撃した後に関羽の元へ身を寄せる。
関羽は官印と兵を預けて再び曹操領内に戻り野盗として近隣を撹乱するよう命じた(正史・管寧伝では218年、資治通鑑では219年の出来事として記載されている)。
許昌近辺で起きた反乱・・・許昌の西に位置する郟、許昌の南東に位置する梁、さらに陸渾が反乱を起こしたため許昌以南が混乱状態へ。陸渾の反乱は前述した孫狼と同じものか別なものかは不明。いずれも関羽を支持し、関羽も官印をばら撒いてそれらを従えた。
また、結果的に未然に防がれましたが、219年に関羽が樊城で曹仁を囲み、于禁が捕縛、ホウ徳を斬ったことをきっかけに鄴での反乱を画策するなど反乱は長きに渡って続きました。
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曹仁の働きが関羽の計画を覆す
反乱が頻発した218年は、曹操が漢中で劉備と直接対峙していたこともあり、関羽にとっては絶好の機会でした。が、反乱の多くが早期に鎮圧されたこと、そして218年に関羽が出兵できなかったことが戦略を大きく狂わせます。
関羽が出兵できなかった理由として考えられるのが孫権に対する警戒です。
孫権は219年に劉備に対して荊州の返還要請をしており、荊州奪還に本腰を入れ始めています。孫権を侮っていた関羽は北伐を主張していたでしょうが、荊州陥落を危惧した劉備や諸葛亮が許可を渋っていたのではないかと予想します。
最終的には許可が下りますが、すでに機を逸していた関羽はまともに曹仁と対決することに。戦略を破綻させたのは曹仁の働きに依る所で、侯音の反乱鎮圧が大きく影響しています。侯音は218年10月に反乱を起こしましたが、翌年の正月に斬られています。
もともとは関羽が同時期に樊城を攻め、曹仁を釘付けにするか、侯音鎮圧に向かった隙に城を陥落させる計画だったのでしょう。ただ、曹操から反乱鎮圧の命を受けた曹仁は、事態を重く受け止め間髪入れずに行動を開始し、関羽の戦略を根底から覆しました。
そして通常の攻城戦へと移行した両陣営の戦いは、早急に城を落としたい関羽と長期化させて援軍を待つ曹仁という構図へ。
関羽は善戦して樊城を孤立させますが、最後は徐晃の援軍到着まで城を死守した曹仁の勝利となりました。
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三国志ライターTKのひとりごと
樊城の戦いは曹操、劉備両軍の大将とも言える2人が争った戦ということで、曹操領内で起きた反乱を利用した関羽の戦略とそれを打ち破った曹仁の智略という構図で考察をしてみました。
ただ、孫権が背後で南郡奪還を狙っている以上、関羽が運良く荊州北部を奪えたとしても南部は失っていたでしょう。兵力で劣る関羽軍が荊州北部の戦線を維持できた可能性も低い。
また、仮に関羽が北伐をせずに荊州南部を守っていたとしても、曹仁はもともと関羽討伐のために南進をしていたようなので、残念ながらいずれの道を選んだとしても関羽は荊州で散る運命だったのかもしれません。
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