類は友を呼ぶと言いますよね?
性格の優しい人には性格の優しい人が集まりますし、気が短い人は気が短く喧嘩っぱやい友達が多く出来るものであるようです。そしてそれはMr.バカちんノート、漆黒の意志を持つ男、法正も同じでした。
今回は曲者揃いの法正の友人関係を検証してみましょう。
正史三国志で確認できる法正の友達
では、最初に法正と交友があった(またはありそうな)三国志でも曲者に該当する人々を挙げてみます。
①張松 | 法正不遇時代からの友人、劉璋の悪口を言いあい、劉備を蜀に入れて、国を乗っ取らせようと考えたなかなかの曲者。 |
②龐統 | 呉のスパイ説まである天才軍師。彭羕を通じて法正と知人だった。蜀獲りを一任した劉備の為に益州を落す実質的な仕事をする |
③彭羕 | 劉璋時代、他人に誹謗され髠刑と首枷まで受けた囚人経験のある男。
龐統と法正の推挙を得て軍事面で才能を発揮する。孔明に疎まれ左遷を受けこの腹いせに馬超を唆し謀反に誘ったとして告発され処刑される。 |
④孟達 | 法正と同郷、樊城攻めで関羽が窮地に陥った時、劉封と共に傍観し関羽を死なせる。劉備の怒りを懼れ魏に投降、曹丕に重用され楽毅の風があると言われた。
曹丕の死後、立場が不安定になり再度、蜀に寝返ろうとし司馬懿に討たれた。 |
⑤李厳 | 諸葛亮、法正、伊籍と共に蜀科の制定に尽力した。法正との直接交流は見えないが、李厳が推挙した楊洪が法正の漢中防衛戦で不在時に蜀郡太守を代行。
法正死後にそのまま蜀郡太守に就任しているので関係ありかも? 第四次北伐で長雨で補給が滞ったのを諸葛亮のせいにして弾劾。激怒した諸葛亮により庶民に落された。 |
⑥呉懿 | 法正と直接の交流が見られないが、孫夫人が呉に去った後、法正は正室が不在の劉備に呉懿の妹で未亡人の呉夫人を娶らせようとし、同族だからと渋る劉備を説得した。呉懿と呉班は諸葛亮存命中、外戚化を警戒されてか昇進できなかった。 |
李厳と呉懿については、直接証拠はないものの、法正と交友があった可能性は高いと思います。
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一級の危険人物と交友する法正
法正の交友関係を見てみると、張松、彭羕、孟達と、どう考えても1つの王朝で天寿を全うできそうにない、いわくつきの人物のオンパレードです。
これは蜀郡太守になってより、恩義には僅かな恩義でも報い、恨みにも僅かな恨みでも必ず報復し、己を誹謗中傷した数人をただちに殺したとされる法正に劣らない苛烈な性格の人々と言えます。
諸葛亮は、蜀郡太守としてオラオラモードの法正に対し苦情を訴えた部下に対し「法正の劉備への功績を考えたらとても処罰できない」と答えたそうですが、本当はこんな危ない連中と交友がある法正と事を構えたくないというのが本音に近いのではないでしょうか?
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法正の隠然たる影響力
もう少し諸葛孔明の言い訳を見てみると、劉備が深く法正を愛信しているからという事情が分かります。劉備は法正をゾッコン信じていて、例え自分の諫言でも下手をすれば不興を買うのではないかと孔明が恐れていたとも考えられます。
事実、劉備の法正への入れ込みようはスゴイもので、関羽や張飛にも生前与えていない諡号を法正と龐統にだけは与えている程でした。
法正の諡号は翼侯と言い、まさに孫権の圧迫を受けつつ南郡にいた劉備の鎖を断ち切り、翼を与えて蜀の地に導いてくれたという感謝の念に溢れています。(龐統の諡号は靖侯)
一方で法正存命時の諸葛亮は、まだ丞相ではなく北伐で振るった独裁権力者の土台は完成していない時期であり、法正と事を構えるのはマズいと感じていたのではないでしょうか?
およそ権謀術数において、孔明では法正には及ばないと考えられ、法正に敵認定されたら、いかに孔明でも無事では済まないダメージを受けたと推測されます。
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法正が長生きしていたら孔明は?
こうして考えると法正が西暦220年に45歳で死去しなかったならば、あるいは夷陵の大敗は無かったかも知れず、そもそも、劉備に蜀の将来を託されたのは法正ではなかったかと思えてきます。
法正は劉備が漢中王になった段階で尚書令であり、軍師将軍の孔明よりも役職が上でしたし、この調子なら劉備死後まで法正が健在なら丞相は法正だったでしょう。諸葛亮のようなワンマン体制は採らないとしても大将軍・録尚書事は兼任したと思います。
法正は、何気に外戚の呉懿にも恩義を売り、かつての友人は龐統、張松、孟達、彭羕と次々と脱落してはいますが、劉備の絶大な威光を背景に劉禅を補佐し諸葛亮を配下として蜀を切り盛りしていたかも知れません。そうなっていたら、その後の三国志は私達が現在読んでいる物とは内容が大きく異なったでしょうね。
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三国志ライターkawausoの独り言
類は友を呼ぶと言いますが、法正が付き合った者たちは欲望に正直で実力主義であり、孔明のような真面目優等生はあまりいない印象です。
これが法正の人物鑑定眼から来るなら、法正が存命ならば諸葛亮が決して取らないような曲者を次々に登用し、意外性のある多くの人材が活躍したかも知れませんね。
参考:正史三国志
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