呉の孫権が長年続いた二宮の変に嫌気が差し、末子の孫亮を皇太子に立てていた頃、魏では、三国志最後の勝者と呼ばれた男、司馬懿が死の床についていました。
曹操に警戒されつつも、曹丕に用いられ諸葛亮の北伐を退けて権力を掴み、権謀術数を駆使してライバルを倒してきた用心深き狼は、最後に何を思ったのでしょうか?
王淩のクーデター
「司馬氏の貉どもめ、何としてくれようか!」
王淩は司馬一族への嫌悪を隠さずに言いました。王淩は、魏に長年仕え、兗州、青州、豫州、揚州の刺史を歴任し、西暦241年には芍陂の役で呉の全琮を撃退し秦晃を戦死させた名将です。
その後も累進し車騎将軍、三公の司空と太尉を歴任します。しかし司馬懿が高平陵の変を起こし曹爽一派を粛正し野望を隠さなくなった事に憤慨していました。
「本来ならば、帝にはもっとしっかりして頂かねばならんが年少で頼りない。いかに、司馬懿が病気だとて、帝自ら司馬懿の屋敷を訪れて助言を求めるとは、ガキの使いではあるまいし、先が案じられてならぬ」
そこで、王淩は甥で兗州刺史の令狐愚と共に曹芳の廃位を企み、曹操の子である曹彪の擁立を企てたのです。
父の計画に対し、長子の王広は成功するはずがないと激しく諫めますが、王淩と令狐愚は挫けずに計画を遂行し曹彪を担ぎ、単固や楊康、黄華、楊弘のような賛同者を得ました。しかし、計画が秒読みとなった所で令狐愚が病死。
計画の頓挫を恐れた楊康は、司馬懿にクーデターを密告、黄華は計画加担を拒否し、使者の楊弘と共に司馬懿に計画を暴露しました。
こうして、王淩のクーデターは失敗していましたが、司馬懿は計画の加担者を一網打尽にしようと王淩を泳がせる事にします。
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王淩を自殺させ曹彪も自害させる
嘉平3年(西暦251年)正月王淩は、呉が涂水に砦を構えていると偽ってこれを討伐したいと司馬懿に願い出ます。しかし、司馬懿は密かに王淩がクーデターを企んでいる事を承知していたのでこれを認めませんでした。
4月、司馬懿は病身を押して自ら軍を率い、軍船を浮かべて流れに沿って進み、九日に甘城に到着。まさか司馬懿が自分で来るとは思わない王淩は、為す術なく武丘で司馬懿を迎え、自らを縛って宿営まで進み出ました。
「あなたは書簡を送り、私に出頭を命じるだけで良かったはずだ。どうして病を押してまで自ら来られた?」
「君は手紙ごときで呼びつけるべき相手ではなかったからこそだ」
司馬懿は温和な顔をしていますが、例の如く目だけは笑っていません。こうして王淩は洛陽に送還され、途中賈逵の廟の前を通りかかると叫びます。
「賈梁道殿よ。私こそは大魏の忠臣であった。もし神がいるのならこれを知っておられよう」
そして、項まで来たところで運命を悲観し鴆毒をあおって自殺しました。
司馬懿は王淩の自殺を知ると残党を全て逮捕し、皆、三族に至るまで誅殺。曹彪もクーデターに加担したとして自殺を命じ領地を没収した上に、臣下まで主君の企てを止めなかったとして皆殺しにします。
司馬懿「さて、やんごとなき王子達は手癖が悪くていかん、なんとかしなくては…」
司馬懿は、魏の諸侯王を全て集めて鄴に住まわせ官吏に命じて監視させ、相互に連絡が取れないようにしました。まさに狼顧の男、司馬懿は非常な用心深さと苛烈な措置で、反逆者を粛清したのです。
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司馬仲達死す
夏6月、司馬懿は体調を崩し死の床に就きました。
高祖宣帝懿紀によると、司馬懿は夢に賈逵と王淩が出現して恨み言を述べたので、ひどく不安に思い、同時に自分が長くない事を知ります。
秋8月、司馬懿はベッドから起きあがる事も出来なくなり、二人の息子、司馬師と司馬昭を枕元に呼び寄せました。
「わしは魏に長年仕え、官は太傅の地位に上り位は人心を極めた。だが、いつも人が、司馬懿は天下を狙う野心があると猜疑したゆえ、常にこれを恐れ疑われぬようにあらゆる措置を取った。もうじきわしは死ぬが、わしの死後も、よくよく世論に留意し無理せず国政を動かせ、慎重にも慎重を重ねるように…」
司馬師「なんと弱気な事を仰せられる。父上にはまだまだ、魏の大黒柱として我等の手本となり、国を導いてもらわねばなりませぬ」
司馬師は毅然とした表情で司馬懿を励ましますが、司馬懿は右手を少し上げて左右に振ります。
司馬懿「師よ、気休めはいらぬ、それよりも…」
司馬懿は言い掛けると枯木のようになった腕を下ろします。そして静かに瞑目して昏睡状態に陥り、やがてかすかに振るえていた白いあごヒゲの動きが停まりました。
司馬師「父上…!」
司馬昭「父上、しっかりして下さい!」
医師は、おそるおそる司馬懿の脈を取り「太傅は身罷られました」と告げました。
慎重にして狡猾、小心にして大胆、好悪の感情激しくも、あくまで表面は寛大に見せかけた乱世の奸物は、終生のライバル諸葛亮に遅れる事17年で天下への野心を2人の息子に託し、73年の波瀾に満ちた生涯の幕を下ろしたのです。
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全訳三国志演義ライターkawausoの独り言
いよいよ、諸葛孔明最大のライバル、司馬仲達がこの世を去りました。曹操が死んでから31年、孔明が死んでから17年、三国志の英雄たちの物語は、次第に遠ざかり、伝説として人々の記憶に残るのみとなっていきます。
しかし、一方で司馬懿の野望は、司馬師、司馬昭の2人に引き継がれ曹丕の建国した魏は、司馬氏の簒奪に晒されていく事になりますが、魏の忠臣は決して王淩だけではありませんでした。
さて、次は呉の大黒柱孫権の死を語っていきたいと思います。全訳三国志演義、本日はここまで!
参考文献:三国志演義 晋書:高祖宣帝懿紀
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