趙雲は、正史・演義を問わず「三国志」の登場人物の中で特に人気が高い武将です。
「三国志演義」には趙雲の獅子奮迅の活躍や武勇伝が多く収録されているのですが、「正史三国志」を見ると、意外にも趙雲の記述は少ないのです。確かに、正史でも趙雲は武勇に秀でた猛将と記述されているのですが、演義と比べるとやや物足りないようにも思えます。
そこで、今回はそんな「正史三国志」における数少ない趙雲の戦歴の中でも、趙雲の最後の戦いとして知られる箕谷の戦いについて見ていきたいと思います。
箕谷の戦いの背景
228年春に行われた箕谷の戦いは、蜀漢の丞相・諸葛亮が魏王朝打倒と漢王朝復興を目指して行った、いわゆる「第1次北伐」の一環として行われました。諸葛亮にとって漢王朝の復興は悲願であり、これを果たすためには後漢王朝を滅ぼした宿敵・魏を倒す必要がありました。
蜀漢が魏を倒すためには、まず蜀漢と境を接する魏の雍州・涼州を攻め、魏の主要都市であった長安を攻略する必要がありました。
そこで蜀漢の諸葛亮は、226年に魏の初代皇帝・曹丕が死去し、まだ幼い曹叡が皇帝に即位した隙をつく形で、雍州への侵攻に打って出ます。これが、いわゆる諸葛亮の「北伐」の始まりとなりました。
一方、迎え撃つ魏の方では、皇帝である曹叡の遠縁にあたる大将軍・曹真が雍州・涼州の軍事を取りまとめる責任者を務めており、曹真は2州の兵を動員して諸葛亮の北伐を阻止しようと動き出しました。
この曹真という将軍は、「三国志演義」では諸葛亮孔明の策略の前に手も足も出ずに翻弄され、味方であった司馬懿にも将軍としての格の違いを見せつけられた結果、憂いのうちに憤死してしまうかわいそうな将軍というイメージが強いですが、史実の曹真は無能どころか司馬懿とともに魏を支えた有能な将軍でした。
それは、一連の諸葛亮との戦いの経過からも明らかでしょう。
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【北伐の真実に迫る】
箕谷の戦いにおける蜀漢の戦略
第1次北伐において、諸葛亮はかなり大掛かりな作戦を立てていました。諸葛亮は長安への最短距離である斜谷道を通って長安を攻めるという短絡的な作戦ではなく、雍州西部である南安・天水・安定の三郡を押さえることで雍州・涼州の2州ににらみを利かせ、要衝である祁山を制圧することで長安を攻める足掛かりとしようとします。
これを見る限り、第1次北伐はまず、長安を攻めるための足場作りから始まったと言えるでしょう。この時、諸葛亮は斜谷道を通って長安のすぐ西に位置するび県を攻めるという偽情報を流すとともに陽動部隊を展開し、魏軍の注意をそちらに引きつけた上で、あさっての方向である南安・天水・安定を攻略しようという計画を立てていました。
この際、諸葛亮が斜谷道方面に派遣した陽動部隊を率いていた将軍こそが、趙雲でした。趙雲は鄧芝と共に陽動部隊を率い、箕谷に布陣することとなります。
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戦いの経過
上に述べた諸葛亮の計画は功を奏し、箕谷に布陣した趙雲らに気を取られた魏軍は蜀漢軍の真意に気付けず、諸葛亮は瞬く間に南安・天水・安定の3郡を制圧することに成功します。
これに衝撃を受けたのが魏の皇帝・曹叡でした。
蜀漢軍の進撃を危ぶんだ曹叡は自ら長安に出陣するとともに、大将軍の曹真と歴戦の猛将であった張郃を将とし、蜀漢軍の迎撃を命じます。この後、曹真は箕谷に布陣する趙雲の別動隊へと向かい、張郃は街亭に駐屯する蜀漢軍本隊を攻めることになります。
こうして、箕谷では趙雲と曹真が激突することになりますが、趙雲はあえなく曹真に敗れてしまっています。『蜀志』趙雲伝によれば、この時には魏軍の兵力が多かったために敗れたとされており、趙雲の部隊がもともと敵をひきつけるための陽動部隊に過ぎないと考えれば、趙雲が敗れたのもやむを得ない状況であったと考えられます。
一方、蜀漢軍本隊は、軍を率いた馬謖が諸葛亮の命令を無視して山上に陣を敷いてしまい、張郃率いる魏軍に包囲されて壊滅してしまいます。
馬謖が敗れたのは諸葛亮の最大の誤算であり、この後に一度は制圧した3郡もすぐに張郃に奪い返されてしまいました。これによって第1次北伐は蜀漢の敗北に終わることとなります。
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趙雲の意地!箕谷からの撤退戦
箕谷で敗れた趙雲でしたが、箕谷からの撤退戦では負け戦ながら、その名将ぶりをいかんなく発揮します。負け戦になれば、兵士たちは算を乱して総崩れになってしまうものですが、箕谷で敗れた趙雲は兵士たちをまとめると、軍需物資などを遺棄することなく、鮮やかに全軍を引き上げることに成功しています。
「正史三国志」以降に書かれた『水経注』『華陽国志』などによれば、この時に趙雲は桟道を焼き払うことで魏軍の追撃を阻止したとも言われています。
ともかく、負け戦にもかかわらず損害を最小限におさえた趙雲の手腕は、さすがといわざるをえないですね。「正史三国志」における裴松之の注によれば、この趙雲の一連の撤退戦を諸葛亮も高く評価しており、回収した軍需物資を恩賞として趙雲にそのまま与えようとしますが、趙雲は「負け戦なのに恩賞はもらえない」として物資を全て国庫に返上したと言われています。
こうしたところも、趙雲の清廉潔白な性格を象徴していると言えますね。
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三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。趙雲の最後の戦いは意外にも敗北に終わっています。この時の趙雲は主力ではない陽動部隊であり、戦った相手も魏の大将軍である曹真率いる大軍とあっては敗北もやむを得ないのではないでしょうか。
とはいえ、こうした負け戦であっても、趙雲は軍需物資を失うことなく回収し、敵の追撃を阻止するという理想的な「負け方」をしているのです。勝つときはもちろんのこと、負ける時にも損害を最小限に抑えることのできるこうした趙雲の戦い方こそが、趙雲が「名将」と言われる所以ではないでしょうか。
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