「三国志」最大のハイライトといえば、間違いなく赤壁の戦いでしょう。
天下統一を目前とする曹操の大軍を、劉備と孫権が手を組み、諸葛亮孔明(以下、孔明とします。)と周瑜という二大軍師の知略をもって立ち向かうというのは、なんとも熱い展開ですね。
今回は、映画「レッドクリフ」にも登場した赤壁の戦いについて、「正史三国志」をもとに、史実ではどうであったのか、という点を見ていきたいと思います。史実を詳しく見ると、「正史三国志」における赤壁の戦いに関する記述の異様さや、なんとあの孔明が赤壁の戦いで実はほとんど何もしていなかったのではないか、という衝撃的な事実が浮かび上がってきます。
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「三国志演義」の赤壁の戦い
まずは、お馴染みの「三国志演義」の赤壁の戦いについて見ていきましょう。映画「レッドクリフ」でも有名な絢爛たる名場面ですね。
河北を平定し、江南までも征服しようとする曹操は大軍で荊州に攻め込み、荊州に身を寄せていた劉備主従は曹操に追われ、行き場を失います。そこで、孔明は呉の孫権と手を組むことを進言し、自ら使者として呉に赴きます。
当時、呉では曹操と戦うか降伏するか揉めていましたが、孔明は降伏派の諸将を論破し、孫権の最も信頼する部下である周瑜を説得し、劉備と孫権の同盟を成立させます。そして、劉備と孫権の連合軍は長江の要衝である赤壁で曹操率いる大軍と対峙します。
孔明と周瑜は、曹操の大艦隊を破るためには火計が最適という結論にいたります。
そのために、両者はまず呉の武将・黄蓋と協力し、黄蓋が偽って曹操のもとに投降し、その隙に曹操軍の軍船に火をかける策を考え出します。
しかし、この策には欠陥がありました。赤壁の戦いが行われた10月は北西の風が強く、風上の曹操軍に火をかけるのは困難でした。これを聞いた孔明は「東南の風を起こしましょう」と言って祈禱を始めます。
はたして、数日もすると本当に東南の風が吹き始め、周瑜は火計を実行に移します。投降を偽って曹操軍に近づいた黄蓋が曹操軍の軍船に火をかけると、はたして火は曹操の大軍を呑み込み、曹操は天下統一目前で手痛い惨敗を喫することになりました。
これが、「三国志演義」で描かれている赤壁の戦いの大体の流れです。もちろん、孔明が祈禱で東南の風を起こすところなどはフィクションなのですが、史実では赤壁の戦いはどのように描かれているのでしょうか。
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「正史三国志」の中でも食い違う赤壁の戦いの記述
「正史三国志」における赤壁の戦いの記述は、はっきり言って異様と言えます。なぜなら、「魏書」「蜀書」「呉書」のそれぞれで、赤壁の戦いに関する記述が食い違っているからです。
例えば、「魏書」での赤壁の戦いは、「曹操は赤壁に至って劉備と戦うが不利であり、疫病で多くの兵士が死んだために撤退し、劉備が荊州を占領した。」とあります。
劉備と同盟を結んでいた孫権とその部下が一切出てこないというのはいささか奇妙ですし、曹操が劉備・孫権連合軍と正面から戦って敗れたというよりは、疫病のせいで敗れたかのような書き方がなされています。
一方、「蜀書」では、「劉備は孫権の部下の周瑜・程普らと協力し、赤壁で曹操を大いに破り、その軍船を焼いた」とあり、
「呉書」でも「周瑜・程普を左右の将として、それぞれ1万の兵を率いさせ、劉備と協力して赤壁で曹操を破った」とあります。これらは「三国志演義」の描く赤壁の戦いの様子と非常に似ていますね。
どうして、「魏書」と「蜀書」「呉書」で記述がここまで食い違うのでしょうか。この理由には諸説ありますが、「正史三国志」という歴史書の特性にそのカギが隠されているという説が有力です。
「正史三国志」は三国時代が終わったのちの西晋の時代に書かれており、西晋の前身である魏を正統としつつも、魏・蜀・呉の三国の歴史を並行してまとめています。その際、著者の陳寿は、三国時代が終わってから間もないこともあり、かつての三国に残されている記録をそれぞれ参照しつつ、「正史三国志」をまとめたといわれています。
この時、赤壁の戦いについてはそれぞれの国で自分たちに都合の良い記述がされており、それをもとにしたために、「正史三国志」における赤壁の戦いの記述が食い違っているという説が有力なのです。
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「正史三国志」の赤壁の戦いで孔明は出てこない!?
「正史三国志」における赤壁の戦いでは、「三国志演義」のように孔明は出てきません。先程述べたように、周瑜や程普といった孫権の部将が赤壁の戦いで大きな役割を果たしたことは言及されているのですが、孔明の役割は史料からは見えてきません。
強いて言えば、孔明が孫権の部下である魯粛と共に孫権と会見し、劉備・孫権の同盟をまとめたことは記述がありますが(「諸葛亮伝」「魯粛伝」)、赤壁の戦いそのものに関して、孔明は登場しないのです。
「蜀書」の記述を見る限り、どうやら火計で劉備・孫権連合軍が曹操を破ったらしいという記述は有りますが、これに孔明が関わっているという形跡もありません。ですので、史料を見る限りは、孫権の水軍を率いる周瑜・程普あたりが火計を実行し、曹操を破ったと考えられます。
「三国志演義」では大活躍していた孔明が全く史実の赤壁の戦いでは出てこないというのはいささか寂しいところですが、考えてみれば、河北や徐州の出身者が多い劉備陣営は水軍の戦いに精通しておらず、曹操を共通の敵とする孫権と同盟を結んだものの、実際の水上戦は孫権軍に任せきりであったと考えるのが自然ではないでしょうか。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか?
赤壁の戦いは、「三国志」全体のハイライトでありますので、「三国志演義」ではかなり気合を入れて描かれています。しかし、史実を見ると赤壁の戦いに関する記述はかなりシンプルであり、しかも同じ「正史三国志」でも巻によって記述が異なります。
史実では曖昧にしか描かれていない赤壁の戦いを巧く脚色し、文学上の名場面にまで落とし込んだ羅貫中の手腕には改めて感心させられるばかりですね。
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