劉備の後を継ぎ、蜀の君主となった「劉禅」は一般的には「暗君」という評価です。実際、小説など様々なメディアでは役立たずのように描かれることが多く、さらにその低い評価が象徴されているように思えます。
しかし、そんな劉禅、意外にも評価できるような逸話がいくつかあります。今回はそんな劉禅の「汚名返上」な逸話について探ってみます。
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君主になるまでの劉禅
劉禅は西暦207年に誕生しました。翌年に有名な「長坂の戦い」が発生し、まだ赤ん坊の劉禅は劉備とはぐれてしまいます。
しかし、趙雲の獅子奮迅の働きによって救い出され、九死に一生を得ます。その後221年の「夷陵の戦い」では留守を守り、発生した反乱を諸葛亮の指揮で鎮圧しています。
劉備が亡くなり、蜀の君主の座に就いたのは223年、劉禅17歳の時でした。
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劉禅の逸話1:とにかく諸葛亮の悪口は許さない
劉禅は劉備に「諸葛亮を父と思え」とまで言われ、その言いつけを守り諸葛亮が生きている間は、彼にすべてをゆだねました。その間は内政、軍事ともに破たんすることなく、国内はある程度安定していました。
「有能な人物にすべてを任せる」というのは君主として大変難しいことで、大抵は大人になるにつれて側近は邪魔になり、排除したりするものです。
呉の孫権も初めは群臣のアドバイスをよく聞く君主でしたが、のちには陸遜を憤死させたり、わがままになっていきます。
諸葛亮が亡くなったとき、「李邈」という人物が「諸葛亮は強力な軍隊を持ち、謀反を企てていました。
彼に兵を預けることは私は不安でした。彼の死は蜀にとって喜ばしいことなのです。」と劉禅に告げます。
これに劉禅は激怒。
李邈を処刑します。劉禅がどれほど諸葛亮を信頼していたかがわかる逸話です。
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劉禅の逸話2:何度も苦言を呈した家臣も処罰しない
組織のトップに立った人間にとって、諫言(いさめること)されることは気持ちが良いものではありません。
劉禅も諸葛亮の死後、宦官の「黄皓」を寵愛していました。
しかし、古来から中国では宦官の横暴によって国が乱れたことは多々あります。側近の「董允」は宦官を重用することを何度も諌め、劉禅もそれを受け入れています。
春秋時代(紀元前6世紀ころ)、楚の平王に諫言した「伍奢」は処刑されてしまいました。それに比べ、最後まで董允の諫言を聞いた劉禅は立派だったと言えます。
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劉禅の逸話3:建国の功臣をしっかり評価した
劉禅の最大の功績は「蜀の功臣を評価した」ことではないでしょうか。
260年、劉禅は「関羽、張飛、馬超、黄忠、龐統、趙雲(翌年)」に「諡号(貴人や高徳な人に死後に送る名前)」を贈っています。これは蜀を作ってくれた武将たちに対する劉禅の感謝の気持ちの表れであるとともに、現在の蜀の名将の評価にもつながっていることでしょう。
父の代の武将たちをおろそかにすることはせず、しっかり追悼したのは素晴らしいことです。
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劉禅の逸話4:あっさりと降伏し、多くの人民を救った
263年、魏は蜀に侵攻します。姜維の北伐で、国が疲弊し、劉禅が宦官を重用し、内政が乱れた結果でした。
蜀軍は姜維が天然の要害「剣閣」にて魏軍を必死に防ぎますが、魏の名将「鄧艾」が前人未到のルートで蜀に侵攻、成都に迫ります。
これを聞いた劉禅は家臣の勧めに従い、一戦も交えずに降伏します。
この報に抵抗していた姜維軍は剣を岩に叩きつけてくやしがった、と言います。
この「戦わずにあっさり降伏」したことは軍人としては評価が分かれるところです。しかし、蜀の人民にとっては多くの血が流れることなく、土地も荒されることも無かったので良かったのではないでしょうか。ギリギリまで抵抗した国家がどうなってしまうかは数々の歴史が証明していると思います。
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三国志ライターみうらの独り言
正史「三国志」の著者「陳寿」は劉禅について「優れた宰相に従っていたときは理にかなった君主であったが、最後は宦官に惑わされ暗君になってしまった。“白い糸は染められるままに何色にも変ずる”、という事だ。」と評価しています。
「白い糸~」の所は周りの人間が優秀ならその通りに、周りが暗愚ならその通りになってしまうという意味で、今でも人物評価に仕えますね。陳寿は蜀に仕えていたので、劉禅と面識があったかもしれません。もっと詳しい劉禅について聞いてみたいものです。
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