曹操のブレーンとして信頼厚かった「郭嘉」は「赤壁の戦い」の前年に亡くなりました。
曹操は赤壁の戦いに敗れた後、「郭奉孝(奉孝は字)が生きていればこんな敗北は無かっただろうに。」と嘆いたといいます。曹操にそこまで言わせた郭嘉とはどんな人物だったのでしょうか?
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袁紹に失望し、曹操に仕官する
郭嘉は若いころから先を見通す能力に優れていたといい、各地の実力者と交友を結んでいました。始めは同郷の辛評、親戚と思われる郭図が仕えていた袁紹に仕官しようと考えていました。しかし、袁紹の人物に失望し、辛評と郭図に警告したのちに曹操と会見することにしたのです。
これは曹操の参謀の「荀彧」の推薦だったといいます。
この会見で曹操と郭嘉は天下について語り合うにつれて意気投合、曹操は「この男が私の大願を成就させてくれるだろう。」郭嘉も笑顔になり「やっとわが主君に巡り合えた。」と喜んだといいます。
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呂布との戦いに終止符を打つ
郭嘉が曹操に仕えたころ、曹操は呂布と長年にわたり激戦を繰り広げていました。なんとか曹操は「下邳城」に呂布を追い詰めますが、兵の消耗が激しく、曹操は撤退も検討しました。しかし、郭嘉は荀攸と共に城攻めの継続を進言し、ついに曹操は呂布を生け捕り、宿敵を殺すことに成功しました。
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次なる敵、袁紹を倒すために
郭嘉は曹操と初めて会見した際に、袁紹と曹操を比べ10の項目で曹操が勝り、10の項目で袁紹が劣っているという意見を披露しました。その10の項目とは「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」のそれぞれで曹操が勝っている、という意見でした。
曹操は呂布を破った後は次なる宿敵、袁紹と対峙することになります。袁紹と曹操の決戦は「官渡の戦い」でしたが、そこにも郭嘉は従軍しています。そこで曹操陣営では背後を孫策に突かれることを恐れていました。
しかし、郭嘉は「孫策は多くの人から恨みを買っており、無事ではいられないでしょう。」と予言し、実際孫策は暗殺されていました。郭嘉は広い情報網を持っていたことを示すエピソードですね。そして官渡の戦いで曹操は袁紹を破り、勢力を更に伸ばします。
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袁家にとどめを刺す!
袁紹が失意のうちに亡くなった後、袁紹の息子たち「袁譚」「袁尚」と曹操は戦い、緒戦は勝つことに成功します。群臣は、これに乗じて一気に袁家と決戦に向かおうと提案します。しかし、郭嘉はそれに反対。一気に決戦に臨めば、袁家が団結してしまい、攻略が困難になる。
しかし、時間がたてば、袁譚と袁尚の間に争いが生じ、そこに乗じて簡単に攻め滅ぼせる、と郭嘉は予想したのです。
この予想通り、袁家をひとまずおいて置いて曹操が南下の構えを見せると、袁譚、袁尚は争いを繰り広げ、まずは袁譚は滅びます。残った袁尚は曹操に追われ、異民族の地、「鳥丸」に逃げ込みます。
追撃すると、劉備や劉表に背後を突かれる可能性がありましたが、郭嘉は劉表の優柔不断を読んでおり、遠征を進言します。事実、劉表は動かず、曹操は袁家を滅亡させることに成功したのです。
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