ブルボン王朝とは?太陽王を産んだ絢爛たるフランス貴族の歴史を解説

2022年1月15日


 

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kawauso

 

ブルボン王朝と言うと、どうしてもお菓子をイメージしてしまいますが、実際には10世紀には存在したフランス中央部のブルボン城から出現してスペインやナポリ、パルマ、シチリアと欧州全域に拡大していった名族です。

 

今回は、そんな数あるブルボン家の中から太陽王ルイ14世を輩出したフランスブルボン王朝について詳しく見ていきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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古ブルボン家は10世紀には存在

 

ブルボン家の家名の由来になったブルボネーはフランスの中心部に位置し、文字通り王国の心臓部の位置にあります。10世紀にアデマールという人物がブルボンの地の領主となりブルボン城を築いて家名をブルボン家としました。

 

アデマールは、9世紀のメロリング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルの子孫と言われています。マルテルは、トゥール・ポワティエの戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止め西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入をイベリア半島で食い止めた高名な人物です。

 

しかし、この古ブルボン家は、1218年に女領主マティルドの死で断絶。その息子であるダンピエール家のアルシャンボー8世に相続されました。ところが、ダンピエール=ブルボン家も息子のアルシャンボー9世が男子を残さずに没し、娘のアニェスがブルゴーニュ公ユーグ4世の息子のジャンと結婚。2人の間に生まれた娘が国王ルイ9世の末子、クレルモン伯ロベールと結婚します。

 

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英仏百年戦争とブルボン家

 

ベアトリスとロベールの息子ルイ1世は国王シャルル4世によりブルボン公に叙せられ、カペー朝ブルボン家を開き、第1ブルボン家と呼ばれます。

 

1328年シャルル4世が死去しフランスではヴァロワ家のフィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まります。これに対しイングランド王エドワード3世が反対して百年戦争が勃発、ブルボン家はヴァロワ家の外戚、有力諸侯としてこれを支えました。

 

2代目ブルボン公であるピエール1世は1356年のポワティエの戦いで戦死、息子のルイ2世が公位を継ぎます。ポワティエの戦いではフランス王ジャン2世も捕虜となりロンドンで幽閉されたまま死去、ルイ2世の妹ジャンヌを妃とするシャルル5世が即位します。

 

このジャンヌは1373年に突如、発狂。1380年にはシャルル5世とジャンヌの息子のシャルル6世が王位に就きました。ブルボン公ルイ2世から見れば甥にあたる国王の誕生ですが、このシャルル6世も1392年に「ガラス妄想(もうそう)」という精神疾患を発症します。

 

ガラス妄想とは自分の体がガラスで出来ていて、ちょっとした事で砕け散るのではないかと恐れる病気でシャルル6世は他人に触れられる事を恐れたので政務を執る事が不可能になりました。

 

この精神疾患はブルボン家の遺伝性疾患と考えられ、ヴァロワ家、後にランカスター家に遺伝してフランスとイングランドの歴史を大きく左右します。

 

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塩と人類の歴史

 

 

アジャンクールの戦いでブルボン公は捕虜に

 

シャルル6世の発狂後、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイの一派と叔父のフィリップ豪胆公(ごうたんこう)のブルゴーニュ派で権力抗争が繰り広げられますがルイ2世はどちらにも加担せずに中立を保ち1410年に73歳で死去します。

 

ブルボン公位を継いだ息子のジャン1世は暗殺されたオルレアン公ルイの遺児シャルルを首領として同年に結集したアルマニャック派に加わりました。1415年アジャンクールの戦いでフランス軍はヘンリー5世率いるイングランド軍に大敗、オルレアン公シャルルをはじめ多くの貴族が捕虜となります。

 

ブルボン公ジャン1世も捕虜となってロンドンに送られジャン1世の息子のシャルル1世が不在の父に代わって家長となり母マリーが後見します。(ジャン1世は戻れずイギリスで死去)

 

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ブルボン公シャルル1世はシャルル7世に仕える

 

1416年、マリーの父であるベリー公ジャンが没します。男子がなかったのでマリーが所領の一部であるオーベルニュ公領およびモンパシエ伯領を相続しました。マリーの長男であるシャルル1世はオーベルニュ公領を譲られ三男のルイはモンパンシエ伯領を相続してブルボン=モンパンシエ家を興しました。

 

1419年ブルゴーニュ派のフィリップ豪胆公の息子のジャン無怖公(むふこう)はアルマニャック派に暗殺されます。この報復として息子のフィリップ善良公はイングランドとアングロ=ブルギニョン同盟を締結しました。1422年ヘンリー5世とシャルル6世が相次いで没しますが、ブルボン公シャルル1世はシャルル6世の息子のシャルル7世に忠実に仕えシャルル7世もブルボン家を信頼するようになります。

 

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シャルル1世、中央集権化に反対し反乱

ジャンヌ・ダルク

 

イングランドとブルゴーニュがネーデルラントを巡り仲違いするとシャルル7世はすかさず善良公フィリップと1424年にシャンベリーの協定を結んで相互不可侵を約束し、さらにシャルル7世は善良公を自軍に引き込もうと1425年にシャルル1世と自身の懐刀であるフランス元帥(げんすい)アルテュール・ド・リッシュモンを善良公の姉妹であるアニェス、マルグリットとそれぞれ結婚させました。

 

こうして善良公とシャルル7世にはアラス和約が結ばれ、シャルル7世の権力は強化されます。

 

ところがシャルル7世の懐刀であるリッシュモン元帥が常備軍として国王軍創設の改革をするとシャルル1世とシャルル7世の関係は微妙になりました。シャルル7世の権力強化を望まないシャルル1世はシャルル7世を廃位して王太子ルイを王位に就けようとプラグリーの乱を起こしますが失敗。

 

王太子ルイはブルゴーニュに逃亡しシャルル1世も逃亡しますが、後に自らシャルル7世の許に出頭して謝罪し領地の一部を削られた上で許されました。シャルル1世は百年戦争終結から3年後、1456年に没し、息子のジャン2世が公位を継ぎます。1461年には百年戦争を終結させたシャルル7世も死去し、ブルゴーニュ公国に亡命していた王太子ルイ11世が即位しました。

 

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ジャン2世はルイ11世に協力しイギリスを破る

 

ルイ11世は父が推進した中央集権化をさらに推進しジャン2世をはじめとする多くの諸侯の反発を招き、ジャン2世はシャルル突進公等と同盟を結びます。1467年ブルゴーニュ公を継いだ突進公はヨーク家のイングランド王エドワード4世と同盟し共同でフランスに攻め寄せます。

 

しかしジャン2世は(のち)にルイ11世と和睦して国王代理として大きな権力を与えられ国王派に寝返りました。この戦いではジャン2世の庶弟ルイはフランス海軍元帥に任じられ、艦隊を率いてアラス一帯でゲリラ活動をしアングロ=ブルギニョン連合軍を撹乱。

庶弟ルイはさらに、エドワード4世との間で1475年にピキニー条約を取りまとめて同盟を崩壊させます。

 

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子供に恵まれず第一ブルボン家男系断絶

 

ジャン2世は1488年に死去。正妻との間に子が生まれず庶子しかいなかったので、聖職にあった三弟シャルル2世がブルボン公位を相続します。この時にジャン2世の末弟ピエールが「後継者はここにいるぞ!」と聖職者の兄の相続に猛反対しますが決定は覆りませんでした。

 

しかしシャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去。四(てい)のリエージュ司教ルイには男子がいたものの庶子として扱われ、唯一男子がいた末弟ピエール2世がブルボン公位を継ぎました。ところが、唯一の男子が不運にも夭折(ようせつ)、ピエール2世は失意の中で1503年に死去。第一ブルボン家の男子は断絶しました。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

それにしてもブルボン家とフランス王家、名前にジャンとシャルルとルイが多すぎ!他に名前はないんですかね?説明していて混乱するんですが…

 

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ながら世界史

 

 

シャルル3世が死去し第一ブルボン家断絶

 

ピエール2世にはシュザンヌという娘がいて、彼女が又従兄(またいとこ)にあたる傍系のブルボン=モンパンシエ家のモンパンシエ伯シャルル3と結婚。シャルルがブルボン家を相続してシャルル3世となりシュザンヌと共同で公位を継承します。

 

一方でフランス王家のヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が途絶えオルレアン公シャルルの息子ルイ12世が王位を継承。しかしルイ12世には男子がなく1515年に死去したので王位は従甥(おい)娘婿(むすめむこ)であるフランソワ1世に継がれます。

 

シャルル3世はマリニャーノの戦いで功績を立てて元帥に任じられ、さらにミラノ総督に任命されますが有能さを警戒され更迭されて帰国を命じられます。1521年妻シュザンヌが死去するとフランソワ1世の母でブルボン公シャルル2世の娘マルグリットを母とするルイーズ・ド・サヴォワがブルボン家の相続権を主張、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収されました。

 

激怒したシャルル3世はフランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世を巻き込んだ陰謀を企てますが陰謀はフランソワ1世に漏れ、シャルル3世はカール5世の下に逃亡します。

 

復讐の鬼と化したシャルル3世は神聖ローマ帝国軍の指揮をとり、1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜にする活躍を見せます。フランソワ1世はマドリード条約を締結して釈放されますがすぐに破棄して戦争を再開します。

 

カール5世はシャルル3世の軍勢をフランソワ1世に(くみ)した教皇クレメンス7世への懲罰としてローマに差し向け帝国軍は教皇軍を敗走させますがローマ包囲中にシャルル3世は戦死。指揮官を失った帝国軍は統制を失いローマ略奪が発生しました。

シャルル3世には子供がなく、ここで第一ブルボン家は完全に断絶します。

 

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ヴァンドームブルボン家の登場

 

シャルル3世の死後、ブルボン家はブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯爵ジャック1世から5代目の末裔ヴァンドーム公シャルルに移ります。ヴァンドーム公はフランソワ1世の時代に国王軍の指揮官を務めて活躍しヴァンドーム伯からヴァンドーム公へ昇格しました。

 

ヴァンドーム公シャルルの息子アントワーヌはナバラ女王ジャンヌ・タルブレと結婚してナバラ王位を獲得します。この結婚は縁故(えんこ)によるものであり、ジャンヌの母マルグリットはフランソワ1世の姉で最初の夫アランソン公シャルル4世がアントワーヌの母方の伯父でもありました。

 

ナバラ女王ジャンヌがアントワーヌとの間に儲けたのが後のフランス王アンリ4世です。こうして10世紀から続くブルボン家の血筋は男系から女系、本家から傍流へと複雑な変遷を遂げつつ、フランス王の血筋になったのです。

 

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アンリ4世がフランス王に即位

 

アンリ4世は母のナバール女王が熱心なカルバン派で新教徒としての教育を受けます。ユグノー戦争では新教徒軍の総帥として登場し1570年にサン・ジェルマンの和議で旧教徒と新教徒の間で和議が成立しました。

 

1572年アンリはフランス国王シャルル9世の妹マルグリットと結婚しますがその1週間後、サン・バルテルミーの虐殺事件が発生。アンリも宮廷に軟禁されカトリックへの改宗を余儀なくされます。

 

しかし、その後脱出して新教徒に復帰、フランス国王アンリ3世の弟アランソン公が死去すると、いわゆる「三アンリの戦い」を進めアンリ3世が暗殺されるとアンリ4世としてブルボン朝を開きました。しかしサリカ法典は国王がカトリックである事を定めていたので、アンリ4世は事を荒立てず1593年にサン・ドニ教会で再びカトリックに改宗しパリに入城します。

 

アンリ4世は自身も苦しめられた不毛な宗教対立を終わらせようと1598年信仰の平和共存をうたった「ナント勅令」を交付し宗教対立で痛めつけられたフランスの再統一を果たし、シュリを登用して経済と財政の再建を図り、官職の売買と世襲制を認めフランス官僚制の根幹を形成しました。

 

ところがアンリ4世は国内のユグノー教徒に対して信仰の自由だけでなく軍事や政治の自由まで与え、フランスは国家の中にさらに国家がある状態に悩まされる事になります。アンリはフランス王には珍しく国民の生活に気を配り「良」と称えられますが宗教の確執から逃れられず1610年5月14日パリでカトリックの狂信者バイヤックにより暗殺されました。

 

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君主論

 

 

ルイ13世、ユグノーを弾圧し中央集権化を推進

 

アンリ4世の暗殺によりアンリ4世と正妻マリ・ド・メディシスの長男に生まれたルイ13世が9歳でフランス国王に即位します。当初は後見のマリ・ド・メディシスに政治から遠ざけられていましたが、1617年には腹心リュイーヌ公を起用しメディシスの側近、コンチーニを暗殺して権力を奪い親政を開始。

 

しかし、国内の混乱、動揺が絶えず国政の秩序回復のため、1624年枢機卿リシュリューを国務会議に入れ事実上の宰相として国政にあたらせます。対内的にはユグノーを弾圧し1628年14カ月の包囲の末に本拠地ラ・ロシェルを陥落させユグノーに対する政治的・軍事的特権を撤廃させます。しかし、信仰の自由に関しては保障しました。

 

対外的にはハプスブルグ家と対抗して三十年戦争に加わりスペインと戦闘を開始、国内で重税反対の民衆反乱が続発する中1643年41歳で崩御しました。

 

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ルイ14世ブルボン家の最盛期を築く

 

ルイ14世は、父であるルイ13世と皇后であるアンヌ・ドートリッシュの長男として誕生します。5歳で父と死別し幼少期には母后とマザラン枢機卿が国政を担当しますが中央集権化への反発と庶民への重税が祟りフロンドの乱が起こりルイ14世はパリを脱出し各地を転々としました。

 

マザランの死後に親政を宣言し初期にはJコルベールを起用して集権的官僚体制を整備し産業保護政策を推進。ル・テリエ、ルーボア父子を重用して軍事力を強化し欧州大陸制圧政策を強行し、フランドル戦争、オランダ戦争を起こし王の威光が全ヨーロッパに及びます。

 

1682年には富を注ぎ込んでベルサイユ宮殿を建築し、数多の寵妃と浮名を流し太陽王と呼ばれます。しかし、1685年にナント勅令を廃止してプロテスタント弾圧を再開すると諸国の反撃が開始され、ルイ14世の威光は落日に向かいました。

 

ルイ14世の晩年には長年の戦争による戦費でフランスの財政は破綻しかかっていました。民衆は重税に苦しみ1709年には「かつて革命で王政を倒したイギリス人を見習え」とする小唄が流行したそうです。

 

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沈みゆく太陽王の帝国

 

それでも絶対王政に守られたブルボン王朝は平穏に見えましたが、ルイ14世の家庭でも不幸が続きました。王の嫡出子(ちゃくしゅつし)は幼少期にほとんど死亡し、唯一成人に達した王太子ルイも1711年に天然痘か麻疹で死去。

 

王太子ルイには3人の子がいましたが長男のブルゴーニュ公ルイは1712年に天然痘あるいは麻疹で病死、同年に次男のブルターニュ公ルイも同じ病で死去します。こうしてようやく生き残った王太孫(おうたいそん)、三男のアンジュー公が王太子になりました。

 

1715年9月1日、77歳の誕生日を目前にルイ14世は壊疽が悪化して崩御。彼は崩御の枕元に5歳のアンジュー公を呼びつけて「私は多くの戦争をしたが私の真似をしてはならない」と誡めました。灼熱の過酷な太陽としてフランス人民の上に君臨したルイ14世の崩御をパリ市民は歓呼の声で迎え、葬列には罵声が投げつけられます。

 

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ルイ15世を経てルイ16世でブルボン王朝が断絶

フランス革命

 

アンジュー公はルイ15世として即位しますが、祖父の言いつけを守らずに戦争を繰り返し60年近い治世の末に1774年に天然痘に罹患して64歳で崩御します。後継者はルイ15世よりも先に亡くなった王太子、ルイ・フェルディナンの三男、ルイ・オーギュスト19歳。奇しくも2代続けて祖父から孫への継承となりました。

 

彼がルイ16世でしたが、すでにブルボン王朝は立て直しようがなく、15年の治世の後にフランス革命を迎えブルボン王朝は5代で滅亡します。その後もナポレオンの百日天下の後、ルイ16世の同母弟のルイ18世が即位したり、ルイ18世の没後は弟のシャルル10世が即位したりしますが、1830年の7月革命で王政は倒れ、以後、ブルボン王朝が復活する事はありませんでした。

 

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世界史ライターkawausoの独り言

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今回はフランス王家になったブルボン家の絢爛豪華な歴史について解説しました。ブルボン家には、夭折や精神疾患により政務が執れなくなる王が多くいますが、これはブルボン家のみならず、当時の欧州で一般的だった近親婚の影響によるものです。

 

ブルボン家は近親婚の影響で嫡流は何度か途絶えますが、近親婚から遠い傍系では血筋が存続しアンリ4世の時代にブルボン=ヴァンドーム家としてフランス王位を継承、5代200年に渡りフランス王として君臨しました。しかし絶対王政から国民主権に移る時代の潮流には対応できず、また戦争と贅沢でフランス人民を苦しめた怨嗟(えんさ)を解消できず、フランス革命で断頭台の露と消えたのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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