三国志演義でこそ諸葛亮の兄、という印象ばかり残ってしまうお兄ちゃんですが、正史三国志を読み込めば読み込むほどにその味わい深さが伝わってくる人物、諸葛の虎こと諸葛瑾。
孫権とは呉版水魚の交わりとも言える関係を築いた筆者の一推し。そんな諸葛瑾をもしものとりかへばや物語、してみましょうじゃありませんか。
この記事の目次
ロバ顔だが性格美人の諸葛瑾
諸葛瑾は若き頃は洛陽で勉学に励み、勉強家だけでなく親孝行者としても知られていました。しかし皆さんもご存知のこと、洛陽では董卓が大暴れしたために洛陽を逃れることになり、揚州へと赴きます。そこで運命とも言える君主、孫権と出会い、ロバが……いえ、馬が合ったのかそれ以後、重用されるようになっていきます。
諸葛瑾はとにかく孫権の扱いが上手く、全てを受け入れずに悪い所はきちんとたしなめつつも決して遠ざけられず、孫権だけでなく、周囲とも友好関係を築きました。何せあの虞翻から感謝されていたというのですから、その温厚篤実な性格は良く分かると言うものでしょう。
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負けない戦を心掛けた諸葛瑾
さて諸葛瑾は諸葛亮の兄と言うことで、政治家とか、軍師的な立ち位置を想像するかと思いますが、どちらかというと軍事的な立ち位置にいたようです。
神算鬼謀で敵を翻弄したり、人心掌握術で敵に内部崩壊を起こしたりなどはなかったようで、しかし入念に作戦を立て、負けない戦いができる人物でした。
孫権からは「臨機応変に欠ける」とも言われていますが、魏の超絶名将(※個人の評価です)
曹真将軍を相手に兵を失わないなど、その手腕は大したものです。
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周瑜と名前が似ている諸葛瑾
因みに諸葛瑾は、苗字は諸葛、名が瑾、字が子瑜です。この名前と字にどこか見覚えがないでしょうか?
そう、性は周、名は瑜、字は公瑾、あの周瑜と同じなのですね。この謹とは慎み深いという意味ですが、瑜と言う文字は「美しい」という意味が有ります。
っかー!流石美周郎とも呼ばれる周瑜!こいつは文字まで美しい!
これは諸葛瑾も輝くようなイケメンだったんだろうなー!
※ロバと言った人には諸葛恪が届きます。
さてそんな余談も済んだ所で、早速とりかへばやしてみましょうか!
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諸葛亮とトレードすると孫権から帰還命令が出る
諸葛亮のとりかへばやでも言いましたが、やっぱり諸葛兄弟は一度だけで二度三度ととりかへばやしたくなるもの。とは言え劉備と諸葛瑾は気が合いそうですが、孫権と諸葛亮の相性は想像する範囲でも全く合わないと言えるでしょう。逆に蜀に行った諸葛瑾は関羽や張飛とも上手くやりつつ、魏延たちなどの不満も相談にのりつつ、軍部もこなしてかなり活躍しそうです。
周囲の潤滑剤になりつつ毎日を過ごしている諸葛瑾の元に届く呉からの手紙、それは諸葛亮からの一文。「お兄ちゃん、呉王様が言うこと聞かないし嫌がらせしてくるんだけど」慌てて諸葛瑾が孫権に連絡を取ると「もう子瑜帰って来てよ!」となってしまうのかな?(とりかへばやできないシリーズ)
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司馬朗と交換して張郃と組ませてみたい
魏でとりかへばやしたくなるのは、司馬懿のお兄ちゃん司馬朗さんです。司馬朗は子供の頃から大人びており、しっかりとした受け答えで大人をやり込める、感心させるなどの一面がありました。
だったら孫権とは上手く行かないんじゃ……と思うかもしれませんが、司馬朗はかつて董卓からの尋問を上手くヨイショして逃げ切った経験もありますし、諸葛亮よりは孫権よりも上手く付き合えるのではないでしょうか!
下にも謙虚な態度で接するので、呉の民衆にも慕われることでしょう。では魏に行った諸葛瑾はどうなるかというと……個人的には同じく慎重派な戦いをする張コウなどと組ませてみたくなりますね。
魏は名将揃いなので華々しい活躍こそできないかもしれませんが、要所要所をそつなくこなして周囲とも上手くやれる諸葛瑾は、魏でも上手くやっていけることでしょう。
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