後漢王朝を滅ぼし、新たに魏王朝を建てた人物と言えば、英雄曹操の息子である曹丕です。
曹丕は後漢を滅ぼしたことで有名ですが、即位後わずか6年で急逝したこともあり、「三国志」ではどうしても影が薄いイメージがあります。そこで今回は、知られざる皇帝・曹丕の戦歴について解説していきたいと思います。なお、今回の記事は基本的に『三国志演義』に準拠します。
曹操の後継者となる曹丕
「三国志」について知っている人で、曹操の後継者となった曹丕の名を知らない者はいないでしょう。しかし、曹丕ははじめから曹操の後継者であったわけではありませんでした。
曹丕には曹昂という兄がおり、本来であれば曹昂が曹操の後を継ぐはずでした。曹昂は197年に曹操が宛城の張繍を攻めて大敗を喫した際、馬を射られた父の曹操に自らの乗馬を差し出し、自らは壮絶な戦死を遂げます。こうして曹昂が戦死し、もう一人の兄である曹鑠も夭折したため、曹丕は一躍曹操の後継者となることとなります。
曹丕は数々の戦いにおいて曹操に従ったとされ、曹操が後漢の丞相となると、曹丕は実質的な副丞相となり、父である曹操を補佐します。
曹操は曹丕の弟である曹植をかわいがったために、曹丕と曹植の間で後継者争いがあったとされていますが、副丞相となっていた曹丕が早くから曹操の後継者と目されていたのは明らかでしょう。
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曹操の死と後漢からの禅譲
「正史三国志」において「超世の傑」とまで呼ばれた英雄・曹操は220年に亡くなります。曹操は後漢王朝に代わって自らが天下を支配するという野望を抱いていましたが、晩年の曹操は「周の文王」たらんとしていました。
つまり、周王朝の基礎を築いた文王のように、自らは後漢に代わる新王朝の礎となり、自分の息子が新たな王朝を築くことを期待するということです。こうして、曹操の後を継いだ曹丕はすぐさま後漢の献帝に禅譲を迫り、220年にはついに献帝から皇帝の座を禅譲され、魏王朝を打ち立てます。
魏王朝を建てた曹丕は陳羣・司馬懿・劉曄といった腹心たちと共に、後漢の郷挙里選を廃して九品官人法を制定して官僚選抜の制度を一新するなど、諸改革に乗り出しました。
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偉大な父を超えたい:曹丕の南征
400年にわたって続いた漢王朝を滅ぼし、歴史に名を刻んだ曹丕が次に取りかかったことは、呉への南征でした。曹丕はその短い治世中、何度も呉への遠征を繰り返しています。
これはおそらく、呉を征伐することで父の果たせなかった天下統一を実現するとともに、赤壁の戦いで呉の孫権に敗れた父を自分が超える、という曹丕の意思の表れであったでしょう。
悲しいかな曹丕には父ほどの軍才はありませんでした。元々華北を本拠とする魏は大規模な陸軍を擁し、陸戦には長けていたものの、水軍は弱体であり、長江という天然の防壁を超えることは容易ではありませんでした。これは「超世の傑」と謳われた曹操でさえ、赤壁の戦いで敗れたことからもわかるでしょう。
もし、曹丕に父と並ぶほどの軍才があれば、呉を征伐することの困難を悟り、軽々に呉との戦いに臨むことはなかったでしょう。しかし、あくまでも父を超えることを夢見た曹丕は呉との戦いを挑みます。
222年、曹丕は荊州・徐州において、合わせて3方から呉に総攻撃を行います。これは30万という大兵力を動員し、魏の総力を結集した戦いでしたが、結局は呉の拠点・江陵を攻め落とせず、魏軍は大損害を受けて撤退を余儀なくされます。そして、この直後、魏の呉に対する前線を長年守っていた猛将張遼も病死してしまいます。
しかし、諦めきれない曹丕は224年に再び呉を攻めます。この時、曹丕は呉の将軍・徐盛の偽城の計を見破れず、呉の防備が固いことに恐れをなして撤退します。
翌225年、曹丕は三たび呉を攻めますが、この時には呉の孫韶がわずかな兵で魏軍を急襲し、慌てふためいた魏軍は総崩れとなってしまいます。この翌年に曹丕は没したので、曹丕は最後まで呉に勝つことはできなかったことになります。
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戦下手の皇帝
曹丕はどうしても歴史的にあまり高く評価されない人物となっていますが、その理由の一つは、後漢王朝を滅ぼし、(名目は禅譲だとしても)帝位を簒奪したこと、もう一つが呉に連戦連敗を喫したことです。
曹丕の父は「三国志」最大の英雄の一人である曹操だったこともあり、どうしても圧倒的軍才を持つ曹操と比べられてしまい、呉に負け続けた曹丕の評価は低くなってしまい、「戦下手の皇帝」という烙印を押されてしまっています。
たしかに、曹丕が呉に連戦連敗したのは事実ですが、そもそも曹丕が呉を攻めたのは、おそらく赤壁で敗れた父・曹操を超えようとしたからではないでしょうか。とはいえ、父・曹操を超えようとしてかえって敗戦を重ね、魏の国力を空費した曹丕が「戦下手の皇帝」と呼ばれるのも無理もないことかと思います。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。「戦下手の皇帝」として知られる曹丕ですが、おそらく曹丕が敗戦を重ねながらも、妄執的ともいえる呉への遠征を続けたのは、赤壁で敗れた父を超えるという野望に憑かれたからではないでしょうか。
その意味で曹丕もまた、赤壁の戦いの呪縛に囚われた人物だといえるのではないでしょうか。
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