さて呉の人々にもっと脚光を当てようシリーズ(今決めました)、今回は呂範です。呂範は呉に、孫策の代から仕え始め、そして孫権の代になっても呉を支えた名将。
その逸話の数々から誠実な人柄が読み取れ、孫権にもそれが良く分かっていたのか良く用いられました。その逸話も交えつつ、呂範の人生を見ていきたいと思います。
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貧乏だったけど将来性がある呂範
呂範は字は子衛と言います。彼は孫策に仕えることになりますが、そこに至るまでは決して平たんな道ではなかったようです。というのも元々、彼は貧乏な役人の一人であり、かなり生活は困窮していたようです。しかし若い頃から分かる人には分かる輝きを秘めた人相の持ち主だったのでしょう。
豪族の劉氏は彼を見るなり「ただものではない」と判断、娘を嫁がせようとします。この時に奥さんが「あんな貧乏人にどうして娘を!」と大反対しましたが、劉氏は何とか妻を説得、娘を娶らせました。
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人違いで陶謙に拷問される呂範
後に戦火から逃れて、寿春に訪れます。ここで出会ったのが孫策。孫策に仕えることを決め、後に信頼される配下の一人となりました。
この後、孫策は呂範を信用して徐州の母親を迎えに行かせるのですが、よりによってこの際に陶謙から袁術の配下と間違われ、投獄されて拷問まで受ける羽目になりました。
その後、呂範の部下たちが彼を救い出し、無事に孫策の元に帰ることができました。孫策は家族同然に呂範を信頼し、母親のいる屋敷にも呂範を招いたと言います。
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孫河と共に孫策の両腕へ成長
孫策と言えば断金の交わりといわれる周瑜との友情が覚えめでたいことと思いますが、孫策の左右と言われると孫河、そして呂範と言われるような存在だったのです。孫策の下で様々な戦いに赴いた呂範は、数々の手柄を立て、孫策が天下に羽ばたく手助けを行っていきます。
しかし、孫策は羽ばたく前にその命を失いました。呂範がどれだけ無念であったかは分かりませんが、後、呂範は孫策と同じく、孫権に忠義を捧げ、再びいくつもの戦いで変わらぬ活躍をしていくこととなります。
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劉備を逃がすな!と孫権に助言
さて孫権の下での呂範の働きと言えば、劉備の一件が挙げられます。さる年、劉備が孫権の元を訪れました。孫権の妹、孫尚香との結婚のためですね。
この時に劉備を見た呂範は、決して返さないように、そのまま留めさせるように、と孫権に進言しました。しかし孫権はこの時にはそれほど劉備を警戒していなかったのか、これを聞き入れませんでした。
後に関羽との決戦の際に孫権はこれを思い起こし、呂範に「あの時に君の言うことを良く聞いていれば、今こんな苦労をせずに済んだのになぁ」と言って、呂範に建業を任せたと言います。
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呂範を字で呼んで死を悲しむ孫権
その後、228年、呂範は様々な功績から大司馬に昇進しました。しかしその印綬を受け取る前に病没、残念ながら年齢は分かりません。孫権は呂範の死を深く哀しみ、その墓を訪れました。
「子衛」
孫権はその墓を前に、そう呼びかけると、それ以上言葉が出なくなり、ただ涙を流して悲しんだと言います。子衛はもちろん呂範の字。字で呼ぶほどに孫権は呂範に敬意をはらい、そして親しんでいたのでしょう。それが良く分かる、そして哀しいエピソードです。
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