三国志の、そして三国志演義ではより、その武勇の高さに目を見張る武将、関羽。しかし蜀びいきと言われる三国志演義でも、関羽のプライドの高さは端々から覗くことができます。
良く言われているように、関羽はその気位の高さによって周囲、特に同僚や部下と確執を起こし、その果てにその生涯を閉じることとなりました。
じゃあ関羽の死因は自分自身によって生じたものか……という所に「劉備」という一点を添えて見たのが、今回のポイントとなります。ぜひ最後までお付き合い下さい。
この記事の目次
関羽の荊州単身赴任は劉備の策略か……?
まず不審に思うのが荊州守護。主力、それも張飛や趙雲という古参メンバーも益州に向かう中、一人荊州を守らされる関羽。もちろん大事な場所だからこそ、関羽に任せた、と考えるのが普通です。
しかしこの時点で、既に関羽は同僚の糜芳や士仁らと不仲になっていました。それは関羽の性格を察していたならば分かること……では劉備は、なぜこの時点で関羽の性格を慮り、どうにかしておかなかったのでしょうか?
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劉備の関羽に対する判断
ですがこの劉備の判断は、まだフォローが可能。なぜなら益州奪取はこの時点で劉備にとって最も優先するべき事態。かといって益州を放置することもできない。
となれば、信頼がおける、そして武勇に、統治にと優れている関羽に任せたとしてもおかしくはありません。寧ろ関羽だからこそ劉備は任せることにした、そう考えた方が自然です。
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孫権との不和、劉備は知らぬ存ぜぬだったのか?
ここで持ち上がってきた呉と蜀の不和の種が、孫権の息子と関羽の娘の婚姻話。この婚姻話に関しては信ぴょう性が疑われている、との意見もありますが、この婚姻話があったとして、そしてそれを関羽が独断で断ってしまったとして。
確かに孫権に対する無礼だと思いますが、こういった話を関羽が独断で断るというのは劉備に対する無礼ともならないでしょうか?本来なら主君に一言相談してから判断するべきことを、現場の、関羽一人の判断で断ったとするなら、それは劉備としても面白い話ではありません。
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実は孫権と関羽の不和ではなく、劉備と関羽の不和の可能性?
「荊州を任せたけど、孫権とのやり取りまで任せた覚えはないぞ!」
「しかも勝手に断ったって……呉との関係に罅を入れる気か!?」
「……いや、本当に断ったのか?実はそういう話にしただけでは……?」
もしや劉備の中で、そんな関羽への疑心が生まれていた可能性はないでしょうか?
そしてこの小さな疑心は徐々に膨れ上がっていき、それが関羽を荊州に留め置き、更にフォローをしないという状態にしてしまったのでは……?
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関羽の大活躍も疑心を膨らませる結果に……?
その後、関羽が始めた樊城攻め。正に軍神と呼ばれてもおかしくないほどの大活躍に次ぐ大活躍。見事な攻め手と包囲、援軍の対処、これらは曹操すらも怯えて遷都を考えるほど。
曹操すら怯えたのです。孫権もまた恐ろしかったでしょう。では、その関羽を配下にしていた劉備は?関羽は強い、間違いなく天下無双の豪傑にして武人である。今は味方でいる関羽の、今後は?
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関羽と劉備と、そして劉封の関係
ここで思い出して頂きたいのが、劉封の存在。
劉備は、劉封が孟達を魏に奔らせたこと、関羽を救わなかったことを責め、更に諸葛亮が劉封は次世代において扱いづらい存在になることを進言し、処刑しました。この劉封と同じ考えを、劉備は少しでも関羽に巡らせることはなかったでしょうか。
張飛はまだいい、張飛は娘を劉禅に嫁がせていて縁戚関係になっています。しかし関羽は。そんな考えが劉備の思考を鈍らせ、関羽のフォローをさせず、そして結果として関羽を救えなかったとしたら。
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関羽の最期と死因
関羽の死因は、そのプライドの高さとも言われます。呉との関係、味方であった糜芳、士仁との関係、味方の軽視が関羽を死へと追いやりました。その一端に、もしも劉備がほんの少しでも関わっていたとするならば。
関羽を失った後だからこそ、劉備はそれを否定したかったのかもしれません。だから関羽を救わなかった劉封に憤り、怒りのままに夷陵の戦いを起こした。
あの無茶苦茶な戦いは、もしかしたら自分自身への怒りもあったのでは。ほんの少しだけ抱いてしまった、関羽への憤りに、怒っていたのでは。なんて、考えてみた筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
関羽の死因は関羽が引き起こしたこと。同じように、張飛の死因もまた、張飛が引き起こしたことと言えます。ですが劉備はかねてから張飛の振る舞いを諫めていたと言われていますが、関羽については何かしら行動をした様子は見受けられない。
それは劉備の関羽への信頼だったのか、それとも。そんな少し穿った目線で、考えてみた次第であります。どぼん。
参考:蜀書関羽伝 呉書呂蒙伝 陸遜伝
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