劉備の臣下にこの人あり、と言われる有名な参謀。その名は法正、字は孝直。この字の孝は、親孝行、孝行者などでも有名な文字で、親に良く仕えることを表しています。親を大事にする人に悪人はいないからさぞや法正も人となり優れ人々の手本たる性格の良い人物で……とはいかないのが、法正の面白い所。
今回はこの法正の性格について、ちょっと面白いルーツも合わせてご紹介したいと思います。
この記事の目次
法正の不遇の時代……そして片鱗
さて、劉備の参謀として有名な法正ですが、当初から劉備に仕えていた訳ではありません。嘗て法正は孟達と共に益州牧の劉璋の元に身を寄せていました。
しかしここでは不遇の日々を過ごしていたようで、重用されなかった法正は「「劉璋では大事を成せない」と考えて、親友だった張松と一緒に劉備に協力して益州を手に入れて貰うことに。なおこの時、同じ僑客に節行の無さを謗られていたそうで……なんかこの頃から法正は法正だったんだろうなという片鱗が見受けられますね。
劉備の益州奪取と、三国志演義の法正
法正は張松と共に劉備に益州を手に入れて貰うように手を貸します。
その下準備として劉璋に曹操とは断交して劉備と手を組むように進言したり、益州の軍備や地理について詳しく説明したりと水面下で動いていた二人。
ただこの二人の背信行為は張松の兄である張粛によって密告され、張松は殺されてしまいますが……法正は劉備の元に逃れることができました。その後も劉備に劉璋の対処を相談されてはその性格を見抜いて的確に対応するなどし、劉璋を降伏に追い詰めます。
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こうして法正と張松の協力で劉備は益州を手に入れることができるのですが、三国志演義ではこの益州攻略が主に龐統の活躍の場になってしまっているので、やや法正の活躍が削られてしまっていることになります。
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漢中攻略と早すぎる退場、劉備の深い寵愛
その後、劉備の漢中攻略が始まります。ここで法正はその手腕を存分にふるうこととなり、曹操との対決に勝利、見事漢中を手に入れます。これにより劉備は漢中王を名乗り、後に漢の皇帝として即位します。
この功績により法正は尚書令・護軍将軍に任じられますが、法正はすぐ病死してしまうのでした。法正の死を劉備は何日も哀しみ悼み、法正に翼侯という諡号を贈りました。
劉備が諡号を与えたのはこの法正ただ一人であり、関羽や張飛、そして諸葛亮にも勝るとも劣らぬ思いをかけていたことがうかがい知れます。
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漢中での劉備とのやり取り、劉備と法正の深い信頼関係
その漢中での有名な劉備とのエピソードをご紹介しましょう。
劉備と曹操との戦いの最中、この決戦に劉備の頭にも血が上っていたのか、劉備は後退は許さないとただただ前進。劉備の周りにまで矢が降り注ぐような状態になってしまいました。それでも劉備の状態を諫められる者はいなかった中で、法正は劉備の前に飛び出ます。驚いた劉備が「何をしている!矢を避けよ!」と命じると法正は
「主君が矢が飛び交う中にいるのに、私ごときが避けることなどできません」と答えたと言います。この言葉に劉備は冷静さを取り戻し、法正と共に身を引いたと言うのです。
有名な夷陵の戦いも法正が生きていれば劉備を止められたと諸葛亮が嘆いたと言いますし、劉備は不思議なほどに法正の言うことを良く聞いたのでしょうね。
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法正がどうして「性格が悪い」と言われるのか
さて劉備との漢中エピソードを聞いただけだと「自らの体を張って……何という忠臣!」と思う法正。まあ間違いなく劉備に対しての忠誠は高いのですが、そんな法正、三国志ファンからは
『性格が悪い』とよく言われてしまっています。
これは法正が蜀郡太守に着任した際に、過去に自分を非難した人たちを、どんな些細なことであっても許さずに勝手に殺害した一件が起因しています。
このことを別の人が諸葛亮に訴えると、あの法に厳しく後に馬謖の失態を自らの地位で責任を取った諸葛亮でさえ
「今の我が君があるのは法正のおかげ、その功績を考えれば処罰できない」と言ったそうで。こんな一件があった法正と諸葛亮は仲が悪かったそうですが、公私のけじめはきちんとし、それを仕事に持ち込むことはなかったとされています。
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法正の血筋、驚きの事実が!?
そんな法正の曽祖父、法雄という人物です。そして驚くことにこの人物、後漢書にしっかりと記録があります。この法雄も曾孫の法正と同じく戦術に明るく、誘降や調略によって反乱軍を弱体化させてから鎮圧するなど巧みさを見せています。
また平氏県長に任じられたことがあるのですが、政治が得意であり、更に「好く犯罪者の摘発をしていた」という記録が……法正が出世したら以前の報復をしたように、もしかして曾祖父も……?とちょっと穿った目線でみてしまいそうです。
一応この「好く犯罪者の摘発をしていた」一件で、反乱が起きにくかった、となっているので、たぶん、そういう意味ではないと思いますけれども。そしてこの法雄、斉の襄王・田法章の後裔とされていたそうな。そう、これが本当だったとするなら、法正もまた斉の襄王の血を組む人物となるのです。
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劉備と法正、もしかして性格的に「釣合っていた」?
因みに斉の襄王・田法章とは、秦の始皇帝よりも前の時代の人物で、彼の崩御後に始皇帝が秦による統一、その秦の滅亡後に劉邦によって漢が開かれます。そして劉備もまた、多少あやしくはあるものの、この漢の血筋を名乗っていますね。
そう、実は劉備も法正も、高貴な血筋でありながら不遇を囲っていた身。なぜ諸葛亮が嘗て夷陵で「「もし法孝直が生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められたはずだ」とまで言われるほど、劉備は良く法正の言うことを聞いたのか?
なぜたった一人、劉備は法正に諡号を与えたのか?それは、劉備も法正も、やんごとなき身分の血筋だと、分かる人には分かったのです!!……というと、飛躍しすぎでしょうか?全てはもしも、ですが。何となく二人が気が合っていたのは、こういう理由があったのかも。そんな風に思った筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
さて法正、そして諸葛亮は、劉巴、伊籍、李厳と共に「蜀科」を起草しています。この蜀科とは、蜀における軍人や庶民を取り締まるための法律です。運用は過酷ではあったものの「公平・公正・公明であった」ため、民衆からの不満は少なかったとされました。
どうにも私情で他人に報復したイメージばかり先走る法正ですが、こういった取り締まる方の立案にも関わったのは、曾祖父の血が確かに流れていた結果かもしれませんね。法雄の性格がどうであったのかは記録されていないため分かりませんが、法正から読み取ってみるのもまた、面白そうだと思いました。どぼーん。
参考:蜀書法正伝 先主伝 後漢書法雄伝
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