反董卓連合軍では配下の孫堅(そんけん)を使って董卓(とうたく)に
大きなダメージを与えた、後漢のスーパーエリート袁術(えんじゅつ)。
しかし、三国志演義ではその後の袁術はどこで何をしていたのかイマイチ伝わらず、
次に出てきた時には皇帝を名乗り、贅沢三昧をして滅んだというオチになっています。
ですが、反董卓連合軍の時期は西暦190年、袁術が即位にするのは197年
その7年間には、そりゃあ色々な事があったのです。
この記事の目次
連合軍の解散後、南陽郡に拠点を掴んで勢力を伸ばす
反董卓連合軍に参加する前、袁術は洛陽で董卓の下にいましたが、
董卓は少(しょう)帝を廃して献(けん)帝を擁立するなど
やりたい放題になっていました。
禍を受ける前に何とかしなくてはと、恐れて色々考える袁術に、
ある日董卓から、こんな辞令が下ります。
董卓「オガッ!袁公路、汝を後将軍に任命するっぺ!」
ここで、董卓の辞令を受ければ、帝を廃した悪名を董卓と共に背負う事になる。
禍を恐れた袁術は逃亡し、袁家の本拠地である南陽郡に到着します。
その頃、孫堅(そんけん)は軍を率いて南陽太守の張咨(ちょうし)に
兵糧の援助を求めますが、張咨は拒否、怒った孫堅は張咨を殺してしまいます。
太守が死んで混乱する南陽に袁術は袁家のエリートとして颯爽と登場。
南陽郡の混乱を鎮めるとして、自ら太守になってしまうのです。
ここで袁術は孫堅の実力を高く評価し、手元にとどめようと
上表して孫堅を領豫(よ)州刺史とし、荊州、豫州の兵を率いさせて
董卓軍を陽人(ようじん)の戦いで撃破させました。
こうして、袁術は郡とは言え人口数百万と豊かな南陽郡を手に入れ、
反董卓連合軍の失敗後は、ここで贅沢三昧を過ごす事になります。
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孤独な袁術、劉虞擁立を巡って従兄弟の袁紹と対立
西暦191年頃、仲が悪い袁術と袁紹(えんしょう)は小競り合いを開始します。
切っ掛けは袁紹が、袁術・孫堅が不在なのを良い事に会稽(かいけい)の
周昕(しゅうきん)を豫州刺史とし、それに激怒した袁術・孫堅が周昕を
撃破してしまった事に始まります。
さらに、袁紹が董卓の擁立した献帝に対抗して、
幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を擁立しようと図った時にも袁術は
「上に誰か立てると行動を制限されてうるさくなるから反対!」
などと猛反対、これには袁紹もキレてしまい、
両者は、それぞれ味方を引き込んで全面戦争の展開になります。
袁紹は子飼いの曹操(そうそう)、そして劉表(りゅうひょう)を味方に引き込み、
袁術は、北方四州の領有を巡り袁紹とドンパチを開始した
公孫瓚(こうそんさん)を引き込んでいきました。
しかし、全体としては袁紹に付く群雄が多かったようです。
またしても人徳で袁紹に負けて激しいジェラシーを感じた袁術は、
「ふん!愚か者共め、我が家の奴隷に従うのか!」
などと袁紹サイドについたメンツを罵倒し、公孫瓚の手紙には・・
「実は袁紹は袁家の人間ではない」
などと誰得なデマを書いて、鬱憤を晴らしています。
袁術、匡亭(きょてい)の戦いで曹操に敗北、本拠地を失う
西暦193年、袁術は、公孫瓚、そして陶謙(とうけん)を抱き込んで、
袁紹&曹操コンビの本拠地、冀州と兗州に攻め込むという連合軍を組織します。
袁術の狙いは、最近、曹操が平定したばかりの兗州でした。
根回しが上手い袁術は、すでに黒山賊や南匈奴とまでコンタクトを取っています。
自分のライバルを袁紹だけと考える袁術からすれば、曹操は袁紹の子分、
ペーペーなので簡単に蹴散らせると、たかを括って陳留まで攻め込みます。
しかし、進軍の途中でアクシデント発生、袁紹の盟友の劉表が、
南陽郡からの補給路を遮断してしまうのです。
普通の英傑なら、ここでうろたえて退却を考えますが袁術は違います。
袁術「兵糧くらい、兗州で調達すればいいじゃん」
と飽くまでも強気です、凄いぞ袁術!平定してない兗州の兵糧を当てにする。
まさに取らぬタヌキの皮算用です。
ところが、黄巾賊からの投降者、青州兵を得ていた曹操は以前とは
比較にならない位にパワーアップしていました。
袁術軍は、青州兵の前に連戦連敗、怯えた袁術は曹操もびっくりの
逃げ足の速さを発揮し、本拠地の南陽郡を放棄して
揚州の九江郡に落ち延びてしまうのです。
この匡亭の戦いは、袁術の生涯でも最大規模の戦いでした。
これに敗れた事で序盤は群を抜いて有利だった袁術の力は低下、
曹操のような格下だった群雄と並ぶようになります。
揚州刺史 陳瑀を放り出して揚州を制圧する
さて、曹操から神速(かみそく)で逃げ出した袁術は、
以前、自分が揚州刺史に任命してやった陳瑀(ちんう)を頼ろうとします。
しかし、陳瑀は何だかんだと理由をつけて城門を開けようとはしません。
袁術は陰陵(いんりょう)まで引いて兵を集めて、再び九江に攻め込み、
敗れた陳瑀は陶謙を頼って落ち延びていきました。
流石は強い者には弱く、弱い者にはトコトン強い、
世紀末、弱肉強食世界の申し子袁術です。
こうして、彼は再び本拠地を得る事に成功するのです。
郭汜が馬日磾を派遣すると拘留して帰さず憤死させる
袁術が寿春に拠点を定めると、当時、長安を支配していた郭汜(かくし)は、
少しでも味方を増やそうと太傅(たいふ)・録尚書事(ろくしょう・しょじ)の
馬日磾(ばじつたん)を派遣します。
馬日磾は、献帝の勅命で、袁術を左将軍、仮節として陽翟(ようてき)侯に封じます。
しかし、郭汜の命令になどハナから従う気はない袁術、仮節を取り上げると、
馬日磾を拘留し何の脈絡もなく「ワシの軍師になれ」と強要します。
そういえば、袁術、前も劉虞の子の劉和(りゅうわ)を拘留したりしていました。
無理やり人に言う事を聞かせる悪癖があったのかもしれません。
そればかりでなく、袁術は幕府を開く権限を与えられた馬日磾に、
自軍の兵士を1000名程リストアップして、
「こいつらを全て、幕府の中に入れろ!!」と無理難題を言います。
馬日磾は袁術の態度に激しく怒り
「あなたの御先祖は、人材を得るのにいかがなされた?
こうして、言葉で脅して公金で部下を養えなどと言ったのか!」
と猛烈な抗議をし、その後憤死してしまいました。
袁術に人生を狂わされた人には、呂布の配下の秦宜禄(しんぎろく)、
小国である陳の国王、劉寵(りゅうちょう)などがいますが
馬日磾もカウントに入れてもいいでしょう。
さらに馬日磾、逆臣、袁術に媚びた事を理由に奸臣認定され、
献帝が後に国葬にしようと言っても孔融(こうゆう)が猛反対し出来ませんでした。
おお、可哀想、袁術って、どこまでジョーカーなんだか・・
袁術、陳珪を得ようとして息子を人質にするも無視される
馬日磾に軍師就任を拒否された後、袁術は、懲りずに勢力を下邳まで伸ばし、
沛の相だった陳珪(ちんけい)に手紙を出しています。
陳珪も後漢の名門、三公の陳球の弟の子で袁術とはエリート同士です。
袁術「ヘイ!陳珪、聴いてくれよ、昔、秦は暴政で人心を失い
天下は乱れて英傑が出現、その中で知勇兼備の将軍が天下を安定させた。
今だって同じく乱世で世に英傑は群がりでているとは思わないか?
君は、私とは昔からの旧知の仲、手を貸して軍師になってくれよ。
天下が平定されたら、私は君を最高の重臣として遇しよう」
袁術は、こうして、上から目線で陳珪に軍師になるように要請し、
この望みを確実なものとする為に、陳珪の息子の陳応(ちんおう)を
下邳から拉致して人質としました。
なんで、この人、こういう汚い事が止められないんだろう・・
しかし、陳珪、捕まった息子を無視して下邳にも向かわず、
こんな返事を出します。
陳珪「漢は乱れたとはいえ秦末に比べれば、幾分秩序があります。
特に曹操殿は、武神ともいうべき猛烈な働きぶりで乱れた世を立て直そうと
毎日、奮戦している最中ですぞ。
一方、あなたは、四世三公の大恩を受けた身でありながら漢を助けるでもなく
下らない陰謀を考えては、自ら禍に飛びこもうという有様・・
ご先祖の威徳を考えれば痛々しくて見ていられませんなぁ
もしあなたが血迷っていて正気を失っているのなら、
今からでも遅くない、漢を支えようと改心すれば禍を免れましょう。
勘違いしないで欲しいのですが、私はあなたとの骨肉の情から、
このように耳に逆らうような事を言うのですよ。
あなたは、私を臣下にしようとお考えですが、御冗談にも程がある。
我等は例え死んでも、あなたの軍門には下りません」
袁術、再び、ボロクソに振られました。
陳珪以外でも、張範(ちょうはん)という人物も袁術に丁寧な招待を受けますが
病を口実に、弟の張承(ちょうしょう)を代わりに派遣しています。
この張承は、袁術が皇帝になりたがっていると見抜き諫言したので、
結局、袁術は面白くなくヒマを出しています。
袁術の軍師探し賢臣探しは、こうして何度か行われますが、
芳しい結果は出なかったようです。
西暦195年、袁術、皇帝即位を口に出す
西暦195年になると、李傕(りかく)・郭汜(かくし)により
長安に閉じ込められていた献帝が董承(とうしょう)などの計略で、
洛陽に遷都しようと長安を離れます。
しかし、一度は献帝の遷都に合意した李傕と郭汜が心変わりして
軍を編成して追撃、これを曹陽で撃破しました。
この敗戦により、献帝死亡説のデマが中原には流れたようで、
袁術は、これで後漢はオシマイと早合点して群臣を集めて言います。
袁術「さて、漢は滅んだ、次は四世三公であるワシの時代って事じゃね?ウキッ!」
群臣「は?違いますよ、何言ってんですか?お猿さん」
などと言おうものなら、もちろん首が飛びます。
しかし、プライドから「はい、そうです」とも言えない群臣は沈黙しますが、
主簿の閻象(えんしょう)が前に進み出て、、
閻象「昔、周は徳を積み重ねて、天下の三分の二を支配しても殷の臣下でした。
殿の徳は高くても、まだ周には及ばず、まだ漢が滅んだと決まったわけでも
ありません、全て時期尚早かと思います」
と正論を述べ、8/5チップス以下の13/1領地しかないヤツが、
思い上がってんじゃねーよ、と暗に、ほのめかしたので袁術は不愉快になり
しばらく皇帝即位の話はしなくなりました。
195年の五月には、袁術と反目していた劉繇(りゅうよう)に対して、
袁術は、虎の子の孫策(そんさく)をぶつけます。
孫策は半年かけて丹陽郡を平定、敗れた劉繇は逃走していきました。
以後、孫策は袁術と距離を置くようになり独立志向を強めます。
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曹操、献帝を保護、袁術、とうとう即位する
西暦196年には、袁術は徐州を陶謙から継承した劉備と不仲になり
盱眙(くい)や淮陰(わいなん)で攻防戦を繰り広げます。
やがて、曹操により兗州を奪い返された呂布(りょふ)が、
劉備の徐州に転がり込み、劉備が袁術と対陣していた隙を突いて
徐州を乗っ取るのもこの頃なのです。
袁術は、西暦196年、献帝があっちふらふらしている、この頃、
董承と連携して、曹操軍の曹洪(そうこう)の部隊を撃破し献帝を保護しています。
さらに袁術は、宮廷にいた楊彪(ようひょう)に妹が嫁いていて、
宮廷の情報にも詳しい位置にいたようです。
こうして見ると、袁術は献帝を擁立する気があったのか?とも思えますが
すでに195年の時点で皇帝への野心があった点を見ると微妙です。
恐らくですが、俺は擁立しないけど、曹操ごときにくれてやるのは嫌、、
程度の反発心では無かったかと思います。
ですので、董承が翻意して曹操に頼り、許に献帝の身柄が移ると
いよいよ献帝への未練も立ち切れ、袁術は群臣の猛反対を押し切り、
河内の張烱(ちょうけい)という怪しげな人物が持ってきた
春秋識(しゅんじゅうしき)という符命を用いて197年正月に皇帝に即位。
坂道を転がるように転落していくのでした。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は、知られざる袁術の西暦190年~197年までを追ってみました。
この間、袁術は、193年天下分け目の匡亭の戦いでダークホース曹操に
ボロ負けしてしまい本拠地を奪われるなどアドバンテージを失います。
以後は本拠地を再度得て、人材収集をしたり、領地の平定にあたったり
それなりに忙しいようですが、結局、190年頃の従兄弟の
袁紹と天下を二分するような勢いを取り戻す事なく、
197年の独り善がりな皇帝即位で、墓穴を掘り自滅という事になります。
この人、根回しが上手かったり、孫策、孫堅を見出したり、
部分、部分で光るものがあるんですが長期的視点が皆無なのが、
やはり失敗した大きな理由ですね。
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