やたらに袁術(えんじゅつ)を持ちあげている事で定評がある
はじめての三国志ですが、それには正当な理由があります。
それは、kawausoが公路(こうろ)さんを好きだから・・ではなく、
ライターろひもとが、袁術を主人公にした小説を書いているからです。
それはさておき、今回のはじさんは、実は袁術と絶交なんかしていなかった
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この記事の目次
袁術&孫策の絶交説は、補則記事による孫策Age↑の策略だった
陳寿(ちんじゅ)が書いた三国志ですが、信憑性を重視した結果、
それはコンパクトで、味も素っ気もない読物になった事は以前説明しました。
※裴松之(はいしょうし)の神編集!異論反論ブチ込みまくりで三国志が激アツに!
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裴松之(はいしょうし)の神編集!異論反論ブチ込みまくりで三国志が激アツに!
正史三国志を書いたのは、西晋の陳寿(ちんじゅ)である事は有名ですが、 その三国志を多くの史料を駆使して補足して、魅力のある物語にしたのが 東晋末から宋初の裴松之(はいしょう ...
その後を受けて、三国志を増補するように命じられた
裴松之(はいしょうし)は陳寿が捨てた様々な三国志関係文献を復活させ、
現在の三国志演義に繋がる面白い読物に三国志を造り変えましたが、
その中で極端な人物アゲの文書が紛れ込んだのです。
趙雲を盛った趙雲別伝、郭嘉を盛った傅子等が代表
それは、例えば、趙雲(ちょううん)をイケメンで義理堅い
スーパー武将に替えてしまった趙雲別伝や、郭嘉(かくか)を
予言者のような軍師にしてしまった傅子(ふし)などが挙げられます。
それは、裴松之の補則記事なのですが、後世の人が面白さ優先で、
それらの補則を本伝以上にクローズアップした結果、史実の当人以上の
スーパーマンを生み出してしまったのです。
※趙雲の記述は盛られていた!イケメン趙雲を生み出した趙雲別伝
※【郭嘉伝】ファン大ショック!郭嘉の功積はだいぶ盛られていた?
袁術をSage↓した書物、江表伝
では、孫策と袁術を絶交させた書物とは、何かというと、それは江表伝です。
三国志、呉志の孫策伝の補則には、この江表伝がふんだんに使われていますが、
信憑性に問題があり、最初から呉の人々を褒め称える理由で描かれているので
皇帝を詐称した逆臣扱いの袁術は、孫策との関係が深い分、意図的に
悪人に描かれ、愛想を尽かした正義の人孫策が絶交を突きつけたという
フィクションを生み出しているのです。
内容は、絶交ではなく、注意を促しているだけ?
呉書の孫策伝には、西暦197年に袁術が皇帝を詐称し
孫策は、書を送って批難し絶交したとあります。
その絶交の書を裴松之は、呉録(ごろく)より見つけて出典としているのですが、
内容が絶交の書としては、かなりマイルドなのです。
曹操(そうそう)が飢えに苦しんでいる今こそ、
天下の有志を集め、薄汚い連中を誅殺するチャンスなのに、
ここで帝位を奪おうとするなど天下の望みに背いている。
② 殷(いん)の湯王(とうおう)が暴君桀(けつ)を討ったのも、
周の武王が暴君紂王(ちゅうおう)を討ったのも彼等が悪事を行ったからだが、
幼君(献帝)には何の悪事もない、それでは、正義を主張できないだろう。
③ 董卓(とうたく)は、帝位を奪わなかったが、それでも天下の人は怒り、
弱い中原の兵で辺境の強兵を撃破したのだ。
今日、中原の人は戦に慣れていて敵は強く、あなたは強いとは言えない。
敵を弱め、自身を強めるには兵力だけでは不足である。
(天下の人を納得させる大義が必要であるという意味)
④ 天下を得るには、天下の人々の協力と天の賛同が必要だ。
事実、過去の帝王の興業には全て瑞兆があり、天下の人の助けがあったが、
あなたにはそれが無い、にも関わらずいきなり皇帝を称するなど前代未聞だ。
公孫述(こうそんじゅつ)なども帝王を称したが、
いずれも終わりを全うしたとは言えない。
⑥ あなたにやってもらいたいのは、帝王を補佐した
周公(しゅうこう)や召公(しょうこう)の役割だ。
帝位は劉氏にあるべきで、そうして初めて忠臣として名を残す事が出来る
聡明なあなたなら、分かってくれるだろうと思う。
⑦ 袁家は五世を宰相に出した名門であり、社稷(しゃしょく)を思って
漢室の深き恩に報いる事と、天下の人を書生のように扱う事では、
どちらが正しいか冷静に考えるべきであると思う。
※社稷は五穀を祀る祠、転じて国家そのものを意味する
⑧ 賢者というのは、為すべき事を知り、行動を抑制して弁えるから
聖人として尊敬されるのであって、無計画に暴走してしまえば、
公的にも私的にも不利になるだけで賢者の執る道ではない。
⑨ 占いを勝手に解釈して、行動を起こしても後で後悔する結果になるのは
歴史が証明している事である
以上の事は、聡明なあなたにとっては釈迦に説法だとは思うが、
万が一の備忘録として心に留めておいて欲しいのだ。
良薬は口に苦いし、良言は耳に逆らうが、どうか聞き入れてもらいたい。
どうみても絶交宣言とは程遠い内容・・
kawausoが見る限り、これは孫策から袁術への絶交状と言うよりは
「今、即位してもろくな事はないから自重してくれ」という
アドバイスにしか見えないのです。
特に①に至っては、孫策は、曹操、劉備、劉繇を漢室に背く
逆臣認定しており、これは袁術のスタンスと同じである事が注目されます。
陳寿が、絶交宣言と書いてあるので、つい、ああ絶交したのだと
思ってしまいますが、内実はこうであり、これでもって
孫策が袁術と絶交したとは到底言えないと思います。
なんだかんだで、最期まで袁術を攻撃していない孫策
そもそもとして、もし袁術と孫策が絶交していたとすれば、
袁術は、陳で曹操軍に撃破されたり、劉備と徐州を争っている時期もあるので
その間に袁術を撃破する事も出来た筈です。
しかし、孫策は会稽(かいけい)攻略に邁進しているだけで北に興味を示しません。
袁術も孫策を警戒している様子はなく、本当に絶交して敵対していたのだろうか?
と疑問を感じる行動をしています。
もちろん、江東を支配する地位になった孫策は袁術の操り人形ではありませんが
憎悪する対象でもなく、北は袁術に南は自分がという腹積もりだった
そんな風に感じてならないのです。
197年の詔は飛ばしだった?存在しない呂布・陳禹・孫策連合軍
西暦197年、夏、朝廷は皇帝を詐称した袁術を討てと
呂布(りょふ)、陳禹(ちんう)、孫策に命じています。
これだけ読むと、さも、三者が連合して袁術討伐軍を起こしたようです。
ところが三軍の一角を占めている陳禹は、命令そっちのけで
孫策の領地を奪取せんと企て、孫策が銭塘に出てくると、配下の万演(まんえん)を
長江南岸に派遣し孫策の領地の周辺に居る、祖郎(そろう)や焦已(しょうき)、
厳白虎(げんはくこ)に官位を授け、孫策の留守を襲わせようと計画して、
孫策に気づかれ逆襲されています。
陳禹は、妻子及び兵力4千人を孫策に奪われて逃げ延び、
袁紹(えんしょう)を頼って故安都尉に任じられています。
あれ?何を仲間割れしているんだろう?
そもそも陳禹は漢室の勢力の筈なのにどうして漢室とは距離がある
袁紹の下に逃げてしまうのか?
そもそも、孫策と仲間割れして罪には問われないのか?
色々な疑問が湧きますが、これはつまり命令は
朝廷からの空手形に過ぎない事を意味しているのではないでしょうか?
つまり、献帝からの命令とは、
「漢室に忠誠を尽くす気があれば袁術を討て」という緩い内容に過ぎず、
ただの紙っぺらに過ぎないのです。
最初から、孫策、呂布、陳禹の同盟軍などなく、孫策は袁術討伐に、
同意したわけでもないので、自分のシマを荒らした陳禹を撃破しただけ、
そして部外者の呂布も何のリアクションもしていないのでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
最初に言いましたが、江表伝は呉の建国の基礎を築いた孫策を、
称える為に書かれています。
つまり、孫策を称える上で皇帝を詐称した袁術は邪魔な存在であり
どこかで孫策に糾弾させる必要があったのです。
その為に史書の内容を曲解して、さも孫策が袁術と絶交し、
漢の忠臣の孫策が逆臣の袁術を討つという筋立てにしたかったのでしょう。
しかし事実は江表伝であっても、司空曹操、衛将軍、董承(とうしょう)、
益州牧劉璋(りゅうしょう)が力を合わせて袁術を討とうとするも、
その前に袁術は死んだ、という尻切れトンボに終わっています。
その後、孫策は、袁術の遺族を保護した劉勲(りゅうくん)を晥(かん)城に
撃っていますが、残された袁術の兵力を吸収してその遺族を保護したのは周知の通りです。
それでも孫策と袁術は絶交状態であると言えるのでしょうか?
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