西暦211年の潼関の戦い、詳細に見ると曹操の軍略がズバリ当たった戦いです。しかし、その功績は曹操だけの手柄ではありません。まったく目立たない所で曹操の勝利をアシストした存在がいたのです。それは、許褚?丁斐?、いえ、そのどちらでもなく鍾繇でした。あの鍾会の父として知られ、曹丕の時代に相国まで昇った鍾繇の知られざる功績について紹介します。
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曹操の関中平定の下準備を施した鍾繇
鍾繇は楚漢戦争時代に劉邦を苦しめた名将、鍾利昧の子孫であると言われます。荀彧、荀攸、郭図などと共に孝廉で推挙され、その後三公府に招聘され廷尉正、黄門侍郎になります。
当時、後漢王朝は董卓の独裁により洛陽を放棄して長安に遷都していました。これは、洛陽以東の群雄に対する後漢の影響力を大きく低下させると同時に李傕・郭汜の出身母体である涼州を含む関中軍閥の勢力を拡大させました。
なにしろ、李傕や郭汜には政治などまるで分らず、食べ物が無くなれば適当な城邑に襲いかかり、略奪と殺戮を繰り返すというヒャッハー状態これにより長安周辺は無法地帯になり、力だけが支配する暴力の巷になります。
そんな中で鍾繇は、献帝を長安に置いておく危険を認識し、策謀を用いて遷都を行い、李傕・郭汜の手から献帝を引き離しました。これ以前、鍾繇は曹操が長安に派遣した使者を李傕が抑留しようとするのを弁護して無事に帰れるようにし、曹操から注目されていたので、献帝が許に落ち着くと次第に重く用いられるようになります。
関中統治を曹操に命じられ超法規措置で混乱を収拾
曹操が献帝を擁しても、洛陽から西の騒乱は収まりませんでした。しかし、当の曹操も呂布や袁紹、黒山賊の討伐に忙しくなりそこまで手が回りませんでした。そこで、鍾繇に侍中の地位を保持したままで司隷校尉を兼務させて持節を与え関中方面の軍事と内政を任せたのです。曹操は関中という土地の複雑さを考えて、鍾繇には法に拘束されない大幅な権限を与えて、思い切ってやるように発破をかけました。
長安に入った鍾繇は、その頃、勢力を二分していた馬騰と韓遂を呼び出して曹操に従う事のメリットと叛いた時のデメリットを説きます。二人は、鍾繇の説得に応じて人質を差し出し曹操の指揮下に入りました。
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官渡の戦いをアシストし河東の反乱を鎮圧する
西暦200年、曹操が袁紹と官渡の戦いを開始すると鍾繇は関中から馬二千頭を供出し、曹操の補給を助けます。曹操は鍾繇を前漢の蕭何に準えて賞賛しています。
西暦202年、袁尚は河東の匈奴単于、呼廚泉を扇動して平陽で反乱を起こさせます。これに対し鍾繇は平陽城を包囲して攻撃を開始しますが、袁尚は、郭援と高幹を派遣し平陽の救援に向かわせました。しかし、郭援の勢いが盛んな事から部下は怖気づき撤退を進言するものが出ます。
鍾繇「我が軍の不利は分かっている、だからこそ退却する事は出来ない
我々の動向は関中の軍閥も気にし、どちらに付くか迷っている所だからだ
今、平陽を投げ出して退却すれば、関中軍閥は雪崩を打って郭援に味方し
我々は無事に生還する事も難しくなるだろう
また、敵将の郭援と私は縁戚だ、あやつの性格は知り尽くしている
落ち着いて戦えば、必ず退ける事が出来る」
鍾繇は、このように言い張既に命じて馬騰に説いて郭援に対抗させます。実は馬騰は、袁尚に説得されて鍾繇を裏切るつもりでしたが、「ここで活躍しておけば曹操の覚えもめでたく重く使われるだろうが、叛いて敗れれば、これまでの功績が水の泡になる」と張既に説得され変心、息子の馬超や龐徳等1万の軍勢を派遣して、郭援が平陽城の途中の汾水を渡る途中を狙って攻撃し、これを撃破します。
衛固の反乱を鎮圧して荒れ果てた洛陽を再興
西暦205年、河東の軍閥の衛固が、高幹・張晟・張琰と結んで叛きます。この時には、衛固が主体というわけではなく并州を収めていた高幹が、曹操が烏桓討伐で不在になった隙をついて上党太守を捕虜にして壷関を閉鎖それに呼応する形で、衛固も蜂起したのです。反乱は河北から関中に渡る大規模なものになり、多くの郡県が落とされますが鍾繇は慌てず、張既に命じて馬騰を招集、自らが大将になって衛固を破りました。
その後、反乱の首謀者、高幹も楽進、李典、鍾繇、張既、杜畿、賈逵の連携で追い込まれ呼廚泉の援軍も得られずに孤立、曹仁に壷関を落とされると荊州に逃げのびようとしますが、上洛都尉王琰に殺害されました。
扇動の源である袁氏も滅び、高幹が消え反曹的な勢力が消滅した所で鍾繇は今後の事を考え、董卓の乱の後、廃墟になっていた洛陽の再興に着手し、関中に避難していた住民を帰還させると同時に、逃亡者や犯罪者も罪を許して入植させる事によって、人口を回復させました。後の潼関の戦いでは、曹操は洛陽を経由して軍を潼関に進めたので鍾繇が洛陽の人口を回復させた事が非常に役に立ったのです。
潼関の戦いを誘発した鍾繇
西暦211年、漢中の張魯討伐に先立ち、鍾繇は関中軍閥に命じて、改めて人質を鄴に送る事と張魯討伐に参加する事を強制しました。この時、関中の内省担当の衛覬が、鍾繇のやり方は関中軍閥を追い詰めて反乱を誘発すると反対しますが、曹操は鍾繇のやり方を採用します。結果は、衛覬の見通しの通りになり、曹操は一万単位の兵力を失いますが鍾繇は変わらず重用されていました。
三国志ライターkawausoの独り言
潼関の戦いは、関中に軍閥が割拠する限りはいつかは起きる戦いでした。仮に衛覬の言い分を100%受け入れても、どこかで必ず反乱は起きたでしょう。だからこそ曹操は、鍾繇を咎めず、変わらず重用したのだと思います。
鍾繇がいなければ、関中における反乱は、さらに曹操を苦しめていただろうと推測され、それは官渡の戦いや漢中攻略戦にも影響を与えたでしょう。後の諸葛亮の北伐に至るまで、魏が蜀に対して有利な状況を保てたのはひとえに鍾繇の手柄と言えると思います。
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