215年の合肥の戦いで
孫権は張遼に命を奪われる寸前のところまで追い詰められます。
泣く子も黙る張遼
呉の人々は張遼をたいへん怖れ、
「泣く子も黙る張遼」と言ったそうです。
聞いたことがあります。
……泣く子も黙る新撰組
……泣く子も黙る鬼の副長
日本史だと、このあだ名は幕末に活躍した新撰組の副長、土方歳三のものですね!
のちに張遼が戦の途中で病に倒れた際、孫権は
「待て、病がなんだ。あいつとだけは戦うな!」
と家臣たちにきつく言いつけたとか。
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216年、ついに曹操と孫権が直接対決
合肥での大敗のあと、孫権は濡須口(じゅしゅこう)に
撤退しました。
この地で兵力を蓄え、再び合肥攻撃をするための準備をしていました。
そこへ、ついに曹操がやってきます。
漢中から40万の兵を率いて合肥で張遼と合流し、
濡須口に進軍してきました。
最初は、偵察に出た孫権軍の凌統(りょうとう)と張遼の小競り合いとなりました。
続いて、孫権軍の甘寧(かんねい)が100騎で夜襲攻撃に打って出て、
成功すると、翌日から本格的な戦いが始まります。
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孫権危機一髪
曹操軍の総力戦に孫権がおされ、
ついには包囲されてしまい、周泰(しゅうたい)に助けられて
孫権は命からがら撤退します。
曹操軍優勢かと思いきや、そうでもなく
陸遜(りくそん)が10万の軍勢を率いて孫権の援軍にかけつけたため、
今度は曹操軍が撤退します。
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戦いは膠着状態に。どちらも勝利できず
勝負がつかない戦いは、魏・呉お互いの国力を疲弊させました。
(孔明はにやにやしていたことでしょう……)
結局、二者は和平を結ぶことになります。
孫権が貢物を差し出すという条件で戦は終結、
曹操は許都(きょと)に
孫権は建業(けんぎょう)帰りました。
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男曹操59歳、今日のひとこと
曹操:「息子を持つなら、孫仲謀(孫権の字)のような子がほしいものだな」
孫権このとき、33歳です。
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普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。