三国志の物語が始まるのは西暦180年代。
秦の始皇帝が初めて全国を統一した時代からすでに400年が経っています。
広大な中国大陸を舞台に、個性あふれるさまざまな武将が、自らの理想や欲望やプライドのために、武や知を競ったおよそ100年間の歴史物語が三国志です。特に話の中心となる主要人物を軸に、統一王朝の後漢が崩壊してから三国時代を経て、晋がふたたび中国を統一するまでの流れを紹介します。
※このあらすじは羅貫中の小説『三国志演義』をもとに作成しています。
「三国志のあらすじ」
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三国志のあらすじ:後漢王朝の動揺
180年代の中国は、380年以上続いた漢王朝が(途中で15年ほど乗っ取られていた時代がありましたが)、全国的に大混乱の状態となっていました。
184年に新興宗教の教祖、張角を中心として、腐敗した後漢王朝に対する黄巾の乱が各地で発生したのでした。
三国志のあらすじ:黄巾の乱
反乱勢力は気がつけば数十万人にまで膨れ上がってしまい、王朝の兵力だけでは対応できなくなります。
慌てた宮廷の人たちは、中国各地の勢力者たちに黄巾党を討伐するよう号令を出します。
その後、張角が病死すると黄巾党の勢力は弱まり、各地の反乱も鎮圧されていきます。
董卓の独裁
国全体が一応の落ち着きを取り戻すと、今度は宮廷内での闘争が始まります。
そこに乗じたのが董卓(とうたく)でした。
自分の操り人形となる新しい皇帝を即位させると、董卓は独裁の恐怖政治を行います。
目に余る横暴をはたらく董卓を排除しようという動きが出てくる中、曹操(そうそう)が彼の暗殺を試みますが、失敗し、故郷へと逃亡します。曹操は地元で兵を募ると、中国全土に反董卓連合を呼びかけたのでした。
名門の出身である袁紹(えんしょう)が連合の盟主になり、各地から軍勢を率いた諸侯が集まりました。
その中には、寄せ集めの小勢力とともに参加した劉備や、息子の孫権(そんけん)が呉の皇帝となる孫堅(そんけん)の姿もありました。しかし、反董卓連合は内部分裂によって瓦解し、董卓の独裁は続きます。
なんとかしようと考えた宮廷人の王允(おういん)は、董卓の寵臣だった呂布(りょふ)を懐柔します。
呂布は董卓を殺害。
中国は反董卓連合に参加した有力者を中心に、群雄割拠の時代に突入します。
群雄割拠
そして、三国志の前半のハイライトの1つ、曹操と袁紹が覇権を争って戦った「官渡の戦い」が起こります。
曹操軍は袁紹軍の半分以下の兵数だったにもかかわらず、戦機をものにして勝利します。
少し前に曹操軍に蹴散らされていた劉備(りゅうび)は袁紹軍に、義弟の関羽(かんう)は曹操軍に参加していました。
袁紹も頼りがたくなった劉備は、遠戚にあたる劉表のもとに身を寄せ、関羽ともう一人の義弟の張飛(ちょうひ)も合流します。
この地で劉備は稀代の知略家、諸葛亮(しょかつりょう)を軍師として配下に招きます。ところが、劉表が死去すると、後ろ盾を失った劉備を曹操は攻撃。劉備たちは領民とともに新野へと逃れたのでした。
新野にも迫る曹操の脅威に対抗するべく、諸葛亮は単独で呉の国に乗り込み、君主の孫権や軍師の周瑜(しゅうゆ)をたきつけ、軍事同盟を結ぶことに成功します。
大軍で押し寄せる曹操軍を、孫権軍と劉備軍は長江の赤壁で迎え撃ちます。
呉軍の黄蓋(こうがい)による苦肉の策などの計略にはまった魏軍の大船団は、炎の海に包まれ、曹操は命からがら都へと逃げ帰ったのでした。
曹操の一強時代が訪れるかに思われていた時代の趨勢は、この赤壁の戦いというきっかけによって、三国時代にむかうことになります。
魏・呉・蜀の三国時代
南下を諦めた曹操は、西の西涼地域に駒を進めることにします。
一方の劉備は諸葛亮の献策に従い、劉璋(りゅうしょう)が治めている蜀に侵攻し、支配に成功します。
西涼も自領として中国大陸の北側一帯を魏(ぎ)の曹操が、南部の東側を呉(ご)の孫権が、そして南部の西側を蜀(しょく)の劉備がそれぞれ支配し、お互いにけん制する三国時代の幕開けとなります。
ところが早くも均衡は崩れ始めます。劉備が蜀に侵攻している間に、荊州の守備を任されていた関羽が、呉の呂蒙(りょもう)の攻撃を受けて戦死。
また、魏では曹操が病に倒れ、息子の曹丕(そうひ)を後継者に指名してこの世を去ります。
曹丕は華歆・王朗・辛毘の勧めに従い、漢の皇帝に禅譲を迫り、自らが魏の皇帝に即位します。それに対抗して蜀の劉備、呉の孫権もそれぞれが皇帝に即位。
関羽や、部下に殺された張飛の仇を討つために、劉備は60万を超える兵力で呉に侵攻します。
しかし、陸遜(りくそん)の火計を受けて大敗北を喫し、気落ちした劉備は白帝城でその生涯を終えたのでした。
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