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劉備の戦績を一緒に飾った伊籍・向朗はどんな人達だったのか?

2020年2月11日


 

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蜀の皇帝に即位した劉備

 

劉備(りゅうび)は蜀(221年~263年)の初代皇帝です。昭烈皇帝という呼び名がありますが、劉備が有名なので、この記事では劉備で通します。

 

劉備に仕える張裔

 

さて劉備は生涯で様々な戦いに身を投じますが、それは彼1人の力で成し遂げたものではありません。今回は劉備と一緒に戦績を挙げて蜀の建国に貢献した伊籍(いせき
)
・向朗について解説します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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伊籍 蜀の法律制定に貢献

伊籍

 

伊籍は若い時から同郷の劉表(りゅうひょう)に従っていました。劉備との交流は、明確な時期は不明ですが彼が劉表に亡命していた時期からあったようです。

 

魔のトリオ攻撃が劉備を追いつめる

 

小説『三国志演義』だと劉備が蔡瑁(さいぼう
)
に殺されそうになるのを助けたり、馬良(ばりょう)を推薦する役割を果たしますが、これは伊籍を目立たたせるためのフィクションです。このように劉表や劉備と軽く交流しているので、伊籍が劉表の正式な部下であったのかは判断が難しいところです。おそらく劉表時代は食客程度の身分だったのでしょう。

 

劉琮

 

建安13年(208年)に劉表が亡くなって劉琮(りゅうそう)が新しい荊州の主となりました。しかし、劉琮は攻め込んできた曹操(そうそう)に降伏。

 

曹操から逃げ回る劉備

 

伊籍はこの時、降伏せずに劉備についていきます。詳細な記述は省かれているのですが当然、長坂の戦いには巻き込まれているはずです。伊籍も戦って逃げたのは予想がつきます。同年の赤壁の戦いや建安14年(209年)の荊州攻略戦に参加している形跡はありません。

 

劉備と仲がよくなる伊籍

 

建安17年(212年)に益州の劉璋(りゅうしょう
)
を討伐する時は劉備と一緒に従軍していますが、詳細な動向は明らかになっていません。おそらく、前線指揮官というよりも軍師という役割だったのでしょう。建安19年(214年)に益州を平定すると、左将軍に任命されます。伊籍の待遇は簡雍(かんよう
)
孫乾(そんけん
)
に次ぐものでした。

 

法正と協議して蜀の法律を作る伊籍

 

さらに伊籍は諸葛亮(しょかつりょう)法正(ほうせい)李厳(りげん)劉巴(りゅうは
)
と一緒に蜀の法律である蜀科の起草に尽力しました。伊籍のその後については不明です。法正は建安24年(219年)、劉巴は蜀の章武2年(222年)に亡くなっているので、おそらく伊籍も同時期に亡くなっていると推測されます。伊籍たちが携わった蜀科も内容は不明。陳寿(ちんじゅ)はわざと残さなかったのか、それとも制定途中で頓挫したのか何もかもが不明です。

 

向朗 馬謖を逃がした罪で免職

 

向朗も劉備が劉表の食客だったころから交流があった人物です。司馬徽(しばき)の弟子であり、龐統(ほうとう)韓嵩(劉表配下の人物)の友達でした。若い時から学問(儒教)は広く修めていたのですが、学者としての品行はしっかりとしていなかったようです。

 

現代風に言えば大人になっても社会人としてのマナー(態度・姿勢)が全く身についてなかったと考えてもらって大丈夫です。ただし、実務能力(役所の簿記計算など)や古典の研究には優れていました。

 

伊籍同様に劉表の死後に劉備に従っています。やはり長坂の戦いは免れていないと推測されます。彼も命からがら逃げたことでしょう。劉備が劉璋を倒して益州を占拠すると、地方の太守を歴任していきます。

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

蜀の建興6年(228年)に向朗は今までの経歴にキズを付けることをします。それは諸葛亮の第1次北伐でした。この北伐は馬謖(ばしょく)が諸葛亮の命令を無視したことから失敗に終わります。

 

泣いて馬謖を斬る諸葛亮

 

この時、馬謖は戦場か牢屋か不明ですが逃亡を図ったのです。向朗は馬謖と親しかったのでこれを黙って見過ごしました。普通ならば死罪にしてもおかしくないレベルですが、諸葛亮は向朗を解任で済ませます。逃亡した馬謖は死罪になりました。

 

解任後の向朗は古典研究をしながら、のんびりと暮らします。建興12年(234年)に諸葛亮が亡くなると左将軍に任命されますが、老齢であったので軍を率いた形跡はありません。そのまま延熙10年(247年)に亡くなりました。当時ではかなりの長寿であり80歳を越えていたようです。

 

三国志ライター 晃の独り言 なんで向朗は死罪じゃないの?

三国志ライター 晃

 

これに関して謎を解くカギは正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『志林』という書物にあります。

 

『志林』によると、「高齢者と幼児には刑罰を加えないのが礼の定め・・・・・・」と記されているのです。向朗の生没年は不明ですが80歳以上で亡くなっていることは史料に記されています。亡くなった延熙10年(247年)が最低80歳と推測しても、第1次北伐があった建興6年(228年)では61歳。昔ではかなりの長生きです。

 

おそらく諸葛亮が向朗を死罪にしないで、免官で済ませたのはこれが理由です。読者の皆様はどう思われますか?

 

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全訳三国志演義

 

 

 

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