漢の高祖・劉邦(りゅうほう)を挙兵時代から支え続けた重臣・夏候嬰(かこうえい)を知っていますか。かなりマイナーな人物ですが、彼は三国時代に多大な影響を及ぼしています。
夏侯嬰の子孫は三国時代の覇者・曹操(そうそう)の重臣・夏侯惇(かこうとん)なのです。さて夏侯惇を知る人は多いと思いますが、夏侯嬰は果たしてどのような人物であったのかを紹介していきたいと思います。
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この記事の目次
劉邦大好き夏侯嬰
夏侯嬰(かこうえい)は、劉邦と同郷の人物です。彼は劉邦が大好きで、劉邦が居るところに常に夏侯嬰ありと言われるくらい一緒にいました。そんな中のいい二人ですが、ある時事件を起こします。
いつものように二人で仲良く酒屋で飲んでいました。二人は帰り道でじゃれあっていると、劉邦の剣が夏侯嬰に当たってしまいけがをさせてしまいます。劉邦は夏侯嬰にけがをさせた事が怖くなって、大急ぎでその場から逃げてしまいます。
夏侯嬰と劉邦は県令に呼び出される
この出来事は事件として扱われ、夏侯嬰と劉邦は県令に呼び出されます。劉邦と夏侯嬰は取り調べを受けます。劉邦は取り調べの席で「俺はやっていない。夏侯嬰に聞いてくれ」と訴えます。次に夏侯嬰が取り調べを受けましたが、夏侯嬰も「転んだだけだ」と言います。
県令は劉邦が夏侯嬰を傷つけたと判断します。県令は劉邦に傷つけられたと夏侯嬰の口から言わせるため、彼を鞭で数十回打ち付けられます。夏侯嬰は鞭で数十回打ち付けられ、瀕死の状態になりますが、劉邦が傷つけたと言わなかったのです。県令は夏侯嬰の強情に激怒し、彼を一年間牢屋に入れます。一年後牢屋から出た彼は、劉邦から感謝され、この事件以降二人の絆は固く結ばれることとなるのです。
劉邦の挙兵に従う
劉邦は、県令の命令で沛県の若者を引き連れ咸陽に向かいます。しかし劉邦の一行は途中で行方をくらましてしますのです。
秦の法律によると、期日までに決まった人数を咸陽に送りつけないと罰せられるのです。沛県から咸陽までは非常に遠く途中で、大雨が降って道が通行不能になったりすると、ほとんど咸陽に着くことは不可能です。また若者達が脱走したりしても罰せられます。
劉邦は沛県を出発しましたが、途中で若者が逃げてしまったのです。そのため彼は、途中で若者たちを解散させた後、彼も行方をくらませます。
夏侯嬰は心配になり劉邦を探す
夏侯嬰(かこうえい)は劉邦が行方をくらましたと聞くと、心配をして方々を探します。しかし中々劉邦を探しあてる事はできませんでした。そんなある日、中華全土を揺さぶる反乱陳勝・呉広の乱が勃発します。
彼らはすぐさま各地を平定し、領地を拡大していきます。劉邦もこの反乱がおきた同時期に挙兵します。
劉邦が挙兵した事を聞くと夏侯嬰も参戦
夏侯嬰は県の役人になっていましたが、劉邦が挙兵した事を聞くとすぐさま馳せ参じます。その後簫何(しょうか)が劉邦の元へ来て「我らが県令を説得して、沛県の城を開けておきますので、お待ちしております」と伝えます。
劉邦は簫何の提案を受け入れ、夏侯嬰や樊噲、劉邦の幼馴染である盧綰などを従え、沛県へ向かって進軍します。しかし沛県近くになると簫何と曹参(そうしん)が加わります。
劉邦を沛県に受け入れるようにと県令の説得をするが・・・
彼らは劉邦を沛県に受け入れるようにと県令を説得します。県令も劉邦を受け入れる事に賛成しますが、心変わりし、説得してきた簫何と曹参を殺そうとします。二人は住民から教えられ、沛県から逃れてくるのです。
劉邦は簫何が県令の説得に失敗した事を聞くと、沛県に攻撃を仕掛けようとします。その時夏侯嬰は「ちょっと待って劉邦さん。俺が沛の父老(土地の有力者)を説得するよ」と提案します。劉邦は夏侯嬰の提案を受け入れ、彼を送り出します。
夏侯嬰が沛県に入ってから数時間後、父老を見事説得する事に成功し、城門が開きます。この功績により、夏侯嬰は太僕(たいぼく)に任命されます。太僕とは馬車を御する御者の役職です。
夏侯嬰は馬車を操る能力に非常に秀でており、沛県でも有名でした。そのため劉邦は、彼を太僕に任命し、劉邦の馬車を操る事になります。
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戦車隊を率いて各地を従軍
夏侯嬰は太僕になり、戦車隊を率いて劉邦と共に各地を転戦します。雍丘で秦の丞相・李斯(りし)の息子・李由の軍勢を打ち破り、開封では先陣を任され、秦軍を破るなど目覚ましい功績を挙げ続けます。これらの活躍が劉邦に認められて、幐公に任命されます。その後劉邦と共に秦の首都・咸陽を陥落させます。
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軍事の天才・韓信の才能を見出
劉邦は項羽(こうう)から蜀漢の王に任命されます。劉邦は項羽の命令に従い蜀漢へと向かいます。当時の蜀漢は三国志の劉備が領地に定めた蜀のような場所ではなく、重い罪を犯した人間が流される場所でありました。
蜀へ行くには、想像を絶するような断崖絶壁を越えなければなりません。劉邦の一行は僻地である蜀に向かいますが、兵士達は次々と脱走していきます。ある日の行軍途中夏侯嬰(かこうえい)は、脱走を企てた兵士達を捕まえます。劉邦は脱走を企てた兵士を処罰するため、小さい裁判を行います。
夏侯嬰は一人ずつ処罰が決定されていく裁判を見守っていましたが、一人の人物を見つけ、すぐさま劉邦に駆け寄り「こいつを処罰するのは止めてください。こいつは逸材(優れた人物の事)です」と処罰中止を訴えます。
劉邦は、夏侯嬰が必死に処罰を止めるので、彼の処罰を取り止め、彼を招いて軍略の話をします。すると相当な軍略の持ち主であることが分かり、すぐさま将軍に抜擢します。
この脱走を企てた人物こそ後世「背水の陣」で有名になった韓信(かんしん)です。劉邦は楚を倒す軍略を彼から聞きすぐさま、軍を引き返します。夏侯嬰も劉邦に従い、軍勢を率いて付き従います。その後劉邦と共に楚軍を相手に各地で転戦していきます。
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劉邦の息子と娘を助ける
夏侯嬰は劉邦と共に漢中を北上し、再び咸陽を陥落させ、関中を制圧します。その後、各国の軍が劉邦の軍勢に加わり、総勢50万以上の軍勢で項羽の本拠地・彭城を落とします。
劉邦は各国の王と共に彭城でどんちゃん騒ぎを連日連夜行います。どんちゃん騒ぎで浮かれていた劉邦と各国の王は、項羽の逆襲にあい、大敗北を喫します。夏侯嬰は項羽軍の来襲で敗北すると劉邦とその息子と姫を連れて彭城から脱出します。しかし夏侯嬰と劉邦を追って項羽軍の騎馬隊が追撃してきます。
劉邦は息子と娘を放り出して逃げる
劉邦は子供二人を乗せているため馬車の足が早まらないと判断し、息子と娘を放り出します。夏侯嬰は劉邦が自分の息子と娘を車外へ投げ捨てた事に驚き、馬車を止めて二人拾い上げ、再び走り始めます。
劉邦は幾度か息子と娘を馬車から突き落としますが、その度、夏侯嬰は馬車を止めて二人を救い上げます。
夏侯嬰の行動にブチ切れる劉邦
ついに劉邦はブチ切れ「やい夏侯嬰。息子と娘を捨てろ。さもないと斬るぞ」と怒鳴り散らします。夏侯嬰は無視して走り続けます。劉邦は夏侯嬰を切り捨てる事は出来ず、息子と娘を捨てる事を止めて、大人しくしていました。
結局、夏侯嬰が御する馬車に項羽の騎馬隊は追いつけず、味方の陣営に逃げ切ることに成功します。この時の事を恵帝は覚えており、夏侯嬰に対して、深い信頼を寄せる事になります。
義侠に溢れた忠臣
劉邦は彭城の戦いで敗れた後、軍を立て直し項羽軍と戦い続け、ついに垓下の戦いで項羽軍を打ち破ります。項羽はその後江南に近い県で、自害したとの報告が届きます。こうして劉邦と項羽の長きにわたる戦いは終結し、劉邦が天下を統一します。夏侯嬰は、数々の功績が認められて、汝陰侯に任命されます。夏侯嬰は若い時から義侠に溢れた人物でありました。
夏侯嬰の義侠溢れるエピソード
夏侯嬰の義侠溢れるエピソードが残っているのでご紹介します。ある日夏侯嬰の元に魯の朱家が訪れます。朱家はある人物をかくまって欲しいと夏侯嬰に訴えます。
その人物とは楚の名将・季布(きふ)です。彼は項羽に従い何度も劉邦を窮地に立たせた将軍でした。項羽が破れると率いていた軍勢を解散して、各地を放浪した後、朱家で匿われていたのです。朱家は夏侯嬰が義侠溢れた人物であると知り、彼の元を訪れたのです。夏侯嬰は朱家の思いやりのある言葉に説得され、劉邦に季布を許すよう訴えます。
劉邦は忠臣である夏侯嬰の言葉を受け入れ、季布を許し爵位を与えて、厚遇する事にします。もし劉邦が季布を深く恨んでいたら、夏侯嬰も処罰されていたかもしれません。しかし夏侯嬰は若いときから義侠の心を備えており、自分に助けを求めてきた者に対しては利害を捨て、自分の命さえ危うくなることをいとわない義侠の心を持った人物でありました。
この精神は夏侯嬰の末裔である夏侯惇や夏侯淵(かこうえん)に受け継がれていくのです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
夏侯嬰の末裔には、夏候惇や夏侯淵だけでなく、曹操の父親である曹嵩(そうすう)も彼の末裔です。曹謄は宦官であったため、跡継ぎがおりませんでした。そこで夏侯家にいた曹嵩を曹家の養子としてもらい受けたのです。
と言うことは、曹操は夏侯嬰と曹参、両方の血筋を持ったスーパーサラブレッドと言うことになりますね。今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~♪
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