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関羽と呂布は特別な存在だった?フィクション「虎牢関の戦い」の編纂背景を考察

2021年7月29日


 

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桃園三兄弟 vs 呂布の一騎打ち

 

虎牢関(ころうかん)の戦いと言えば三国志演義における序盤の大きな見せ場の一つ。特に出された酒が冷めないうちに華雄(かゆう)を討った関羽(かんう)劉備(りゅうび)三兄弟が束になっても倒せない呂布(りょふ)は強烈なインパクトを与えます。

 

呉の孫堅

 

しかし、これらはすべてフィクション。史実に虎牢関の戦いはなく、華雄を討ち取ったのも孫堅(そんけん)です。

 

三国志演義の作家 羅貫中

 

小説である三国志演義は、このように史実とは異なるストーリーが多々盛り込まれているわけですが、なぜ羅貫中(らかんちゅう)は虎牢関という場所で関羽や呂布が活躍するエピソードを作ったのでしょうか?

 

羅貫中

 

今回は虎牢関という場所や時代背景などを紐解きながら、エピソード創作の意図を考察していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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虎牢と周の穆王

洛陽城

 

虎牢関は時代に呼称が変わっていて、かつては成皋関(せいこうかん)古崤関(ここうかん)武牢関(ぶろうかん)なども呼ばれていました。呼称の多くは各王朝が設置した地名に由来するもので、虎牢関も「虎牢」という地名が元となっています。では地名の由来はというと周の(ぼくおう)がこの地で狩りをしていた際に飛び出てきた虎を捕らえ、飼育をしたことから生まれました。

 

現在は汜水鎮(しすいちん)という地域にあることから「汜水関(しすいかん)」、あるいは歴史的に著名な「虎牢関」の名称で呼ばれています。

 

虎牢「城」の建設

 

虎牢の地はもともと周の文王(ぶんおう)の異母弟である虢仲(かくちゅう)が封ぜられた地でしたが、周朝末期には弭叔頽(ひしゅくたい
)
の反乱鎮圧で功を上げた鄭国の封地となります。春秋時代になると中原を制した鄭国(ていこく)に対抗する目的で、晋の成公(せいこう)諸侯(しょこう)と協力して城塞(じょうさい)が建てられ、虎牢城(ころうじょう)と呼ばれました。

 

虎牢関の誕生

秦の旗を掲げる兵士

 

時代の変遷の中で虎牢は鄭国を滅ぼした韓国が領有し、続いて韓国を攻めた秦国の手に渡ります。その際、秦の荘襄王(そうじょうおう)がこの地に関所を設けたことで虎牢関の誕生となるのですが、史書に虎牢関という名称が登場するのは唐代からです。

 

新唐書に記載された「会昌(かいしょう)5年(845年)虎牢関に昭武廟が作られた」という記述が最初で、それ以前に虎牢関という名称は出てきません。秦から楚漢戦争(そかんせんそう)期、漢代といずれも成皋関や旋門関、玄門関といった名称で呼ばれてはいるものの、虎牢関とは呼ばれていなかったようです。

 

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—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

「虎牢関の戦い」の疑問

青龍偃月刀を持つ関羽

 

前置きが長くなりましたが、こうした歴史ある場所を題材として作られた「虎牢関の戦い」の意図を考えていきましょう。まず虎牢関の戦いで大きな活躍をしているのが関羽と呂布の2人です。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

しかし、正史において劉備一行は参戦した記録すらありませんし、呂布も胡軫(こしん)の副将という位置づけで孫堅に敗れたとあるくらいで活躍はしていません。

 

また、担ぎ上げられた2人とは対象的に地に落とされた可愛そうな人物もいます。それが史実では大きな戦功を上げている孫堅、本当は大将だった胡軫、目立った記載のない華雄の3人です。

 

関羽VS華雄

 

孫堅は華雄を引き立たせるポジションになっていますし、その華雄も関羽の強さを誇示するための当て馬。胡軫に至っては華雄と呂布の上官だったのが、副将扱いされた上に孫堅配下の程普にあっさり殺されています。小説なので史実と違うことに問題はありませんが、なぜこのような大幅な変更がされたのでしょうか?

 

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呂布

 

関羽と呂布の役回り

京劇の関羽

 

関羽と呂布の活躍に共通して言えるのは2人の強さが際立っているということ。なぜこうした見せ場を与えたのかというと大きく2つの理由が考えられます。1つ目は物語の前半から中盤にかけて関羽と呂布のポジションが重要であることです。

 

悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

まず三国志演義は劉備ら蜀の面々をヒーローという位置づけにし、悪役と対峙する構図が基本となっています。序盤は暴虐非道の董卓(とうたく)が絶対的な悪、続いて裏切りを繰り返す呂布がその役回りを引き継ぎ、最終的にそれは覇道を進む曹操(そうそう)へと継承されていきます。

 

董卓

 

史実において董卓は圧倒的な力を持っているので悪役にもピッタリ。異論はないでしょう。しかし、史実における呂布はそこまで強そうなイメージがありません。ですが、演義では「最強呂布」という肩書も助けて曹操と劉備が協力してやっと倒したという印象を与えます。

 

曹操から逃げ続ける劉備

 

そして「最強」を倒した曹操もまた董卓以上に強力な悪役として、物語の後半で劉備の前に立ちふさがります。

 

関羽については劉備に足りない「武」を補う存在であり、関羽と劉備の評価はほぼイコールであると言ってもいいでしょう。つまり、関羽が活躍すればするほどヒーロー側が優勢という印象を与えるのです。

 

赤兎馬を乗り回す関羽

 

また、関羽は呂布の赤兎馬(せきとば)を受け継いでいますが、これは「最強」という看板を引き継いだとも言え、官渡(かんと)や関羽千里行(せんりこう)樊城(はんじょう)といった後半における活躍ぶりを補完しています。

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

仮に虎牢関での活躍がなかったら呂布はパッとしない印象で、曹操の悪役としての存在感も半減していたでしょうし、関羽は前半と後半の活躍のバランスが取れず、なぜか急に曹操に惚れ込まれるという展開になっていたでしょう。

 

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関羽

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

-呂布, 関羽
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