鍾会は魏の重臣、鍾繇の晩年の子であり、生母のスパルタ教育により幼少時から神童と呼ばれ将来を有望視されたエリートでした。
しかし鍾会の内面には野心が渦巻いており、成長していくにつれ策謀で他人を蹴落とす暗黒面が強くなっていきます。その鍾会の野望の最終目標が蜀を支配して、魏に攻め上り天下を取るという鍾会の乱です。
ところが、鍾会の乱はあまりに杜撰な計画であり、これという成果もないまま反乱未遂の形で鍾会の人生と共に幕を下ろす事になりました。
この記事の目次
鍾会の略歴
鍾会は、豫洲潁川長杜の人で太傅鍾繇の晩年の子です。幼い頃から早熟で蔣済は5歳の鍾会を見て非凡な人物で将来が楽しみだと言いました。
蔣済の見立ては間違いなく成人する頃には、数々の才能を開花させ名声を得て尚書侍郎・中書侍郎に昇進。
曹髦が即位した西暦254年頃には関内侯の爵位を得ています。鍾会の才能で際立っていたのは策略の才能です。
例えば西暦257年の諸葛誕の乱では、呉の全琮の息子である全懌、孫の全静、従子の全端、全翩、全緝が兵を率いて諸葛誕の救援に寿春城に入りました。
ちょうどこの頃、呉に留まっていた全懌の兄の子、全輝・全儀が建業で同族と騒乱を起こし母を連れて司馬昭に帰順する事件が起こります。
鍾会は全輝、全儀を利用し寿春城内の全懌の一族を降伏させようと思い付き、
”呉の国内では政変が起きて、諸葛誕について叛いた全氏一族を根絶やしにしようとしており、全輝、全儀はそれを恐れて逃げてきた。このまま寿春城にいると呉の全氏が絶えてしまうので急ぎ降伏して欲しい。”
このように書いた手紙を全氏の中で信頼が置ける人間に与え寿春城に侵入させました。一族から手紙を見せられた全懌は驚き慌て、一族を引き連れ東の城門を開いて降伏します。
寿春城は全氏が一斉に抜けた事で士気が大きく低下し、諸葛誕と文欽が仲間割れを起こし文欽が殺害されるなど、さらなる内紛が起き諸葛誕の乱は鎮圧されました。
鍾会は、その策謀を賞賛され現代の張良とまで称され司隷校尉に昇進しますが、一方ではかつて自分を無視した恨みで、竹林の七賢、嵆康に冤罪を着せ殺するなど陰険な行動が見られました。
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総大将として漢中に侵攻
司馬昭は蜀の姜維が北伐で国力を疲弊させている事から蜀を討伐する好機と考えていました。鍾会も同じく、今ならば蜀を征伐できると考え、予め調べた地形を計測し司馬昭と善後策を協議していたようです。
こうして263年秋、司馬昭は鄧艾・諸葛緒に三万人の兵力を与え、鄧艾を甘松、沓中に進軍させて姜維と戦わせ、諸葛緒には武街・橋頭に赴いて姜維の帰路を絶つように命じました。
そして鍾会を鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命。十余万の軍兵を与え総大将とし兵を分割して斜谷、駱谷より漢中方面へと侵攻させました。
途中、鍾会は許褚の子で牙門将の許儀に桟道を修理させていましたが、橋に穴があいていて鍾会は馬の脚を取られます。怒った鍾会は許儀を呼び出し、仕事に手抜かりがあったとして斬首しました。魏の宗室に縁のある許儀でさえ助命されない事に、鍾会の軍勢は震え上がって軍規は粛然としたようです。
蜀では、黄皓の占いに騙された劉禅のせいで対応が遅れ、陰平の姜維に援軍が間に合わないので漢・楽の二城に籠城し防衛線を敷きます。
蜀の監軍王含は楽城、護軍蔣斌は漢城をそれぞれ5千の兵力で守備。それに対し鍾会は護軍荀愷、前将軍李輔に各々万人を与えて荀愷に漢城、李輔には楽城を包囲させておき、自身は本隊を率いて進軍。陽安口に出ると人を派遣して諸葛亮の墓を祭らせました。
次いで鍾会は、胡烈らを先行させて陽平関城を攻略させて貯蔵していた積穀を獲得します。ここまでは鍾会の采配は全て的中しています。
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剣閣で姜維に立往生
姜維は沓中より陰平に帰還し、兵士を集めて陽平関城に赴こうと考えますが、すでに胡烈に陥落させられたと知ると退却し白水に赴き張翼・廖化と合流して剣閣に入り、鍾会を迎え撃ちました。しかし、剣閣は堅牢であり、姜維はそれを頼みに外に出てこようとはしません。鍾会は得意の文書攻撃で
”曹魏王朝は徳が高く寛容なので、今、大人しく降伏すれば命を取る事はないし、降伏した者でも同様に出世のチャンスを与える。実際に孫呉からの降伏者は高い地位についている。今からでも遅くはないから何が自分達の得になるかをよーく考えて返答しなさい。”
みたいな事を呼びかけますが、姜維は黙殺。どうにも出来ず食料が覚束なくなったので、早々と退却する準備を開始しようとします。
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鄧艾探検隊が劉禅を降伏させる
ここで姜維を追いかけて陰平から南下してきた鄧艾が、剣閣を迂回して断崖絶壁を踏破し、成都の近くまで出るという超危険な冒険進軍を献策してきました。
鍾会は、どうせ上手くいくわけはないと考え、「やりたきゃ自分の軍だけでチャレンジすれば?」と許可を出します。
こうして
「火曜スペシャル! 鄧艾探検隊:蜀の秘境に漢の帝都(エルドラド)を見た!」を開始した鄧艾は、苦しい行軍の末に見事に成都の近くまで進軍、
先住民の諸葛瞻を打ち破って敗死させ、劉禅を降伏に追い込みました。
剣閣に籠城していた姜維は、成都が危ないと知ると剣閣から巴に後退、すかさず鍾会は胡烈、田続、龐会を派遣して姜維を追わせ、姜維は広漢の郪県という所で、節と伝を胡烈に送付し、直ちに東道より鍾会に面会して降伏しました。
鍾会はこうして、鄧艾に先を越される形で蜀を滅亡させる事に成功します。
鍾会は総大将として魏軍が成都で略奪しないように禁令を発布し、決して驕りたかぶる事なく謙虚な姿勢で蜀の群司に接し特に姜維と親しく付き合います。魏帝は詔を発して鍾会を三公の司徒にし県侯に進めて1万戸の食邑を与え、子の2人を亭侯とし食邑として各千戸を与えました。
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