「三国志」最大の英傑の一人として数えられる曹操。かつては『三国志演義』で悪役とされたことから、悪逆非道な人物としての評価が定着していましたが、近年では『演義』にとらわれず、曹操を「英雄」として再評価しようという動きが進んでいます。
そこで今回の記事では、そんな曹操のすごさはどこにあるのか、その「決断力」という点からみていきたいと思っております。
合理性と決断力がある曹操
一般的に、曹操が一代であれだけの大勢力を築くことができた要因は、その合理的戦略にあると言われています。
曹操は、有能な人材を好み、時には敵対していた人物であっても優秀な人材であれば、個人的な恨みを水に流し、積極的に登用するという姿勢を取っています。
これにより、多くの有能な軍師・武将が曹操のもとに集い、曹操の覇業を支えたといえるのです。しかし筆者は、そうした合理性のみならず、「理外の理」をつかみ取る決断力も曹操のすごさの一つではないかと思います。
今回は、そんな曹操が下した数々の決断について見ていきたいと思います。
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黄巾の乱討伐の後、役職を辞任して帰郷した曹操
曹操という人物は大宦官である曹騰の孫として生まれたことは有名です。後漢末期において、宦官は外戚(皇后の一族)との権力闘争に勝ち抜き、霊帝(在位168〜189年)の下で専横を行います。中央政府の権力を掌握した宦官勢力の家系に生まれた曹操も、若くして出世を遂げることになります。
曹操は20歳の時、洛陽北部尉として洛陽の治安維持を担います。正義感の強かった曹操は不正を許さず、法令違反には厳罰をもってあたります。当時、有力な宦官であった蹇碩の叔父が法律を犯した際には、容赦なく撲殺しています。これにより曹操は宦官勢力から恨まれますが、結局大宦官の曹騰の孫ということもあり、処罰されることはありませんでした。
その後、184年に黄巾の乱が起こると、曹操は黄巾党討伐に功績をあげ、済南国の相(実質的な太守)に出世します。ここでもやはり、曹操は役人の不正を禁止し、邪教を取り締まるなど、済南の風紀を一新しました。
この功績を買われ、曹操は187年に東郡太守に任命されますが、あろうことか曹操は任命を辞退して帰郷してしまいます。このまま太守となっていれば、出世の道は開かれていたはずですが、曹操はなぜ東郡太守の地位を捨てたのでしょうか。
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なぜ曹操は太守の地位を捨てて帰郷したのか?
おそらく、曹操はこの後に中央政界で政変が起きることを見越していたのではないでしょうか。当時、朝廷では宦官勢力と外戚の大将軍何進が対立していました。
宦官の孫である曹操は当然外戚勢力から敵視されていたはずであり、その一方で不正を許さず厳罰を持ってあたる曹操は、宦官勢力からも恨まれていました。だからこそ、このまま出世すればいずれ外戚・宦官の双方を敵に回すことになると考え、曹操はあっさりと地位を捨てたと考えられます。
誰しも出生や栄達にはひかれるものですが、自らの立ち位置をしっかりと見切り、出世や栄達の道をたやすく切り捨てた曹操の決断力は評価すべきではないでしょうか。しかし、歴史は曹操を必要としていました。この翌年、霊帝は自ら皇帝親衛隊の西園八校尉を創設し、皇帝直々に八校尉の一人として任命された曹操は再び官界に復帰することとなります。
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官渡の戦いの勝敗を決めた曹操の決断
その後、曹操は董卓や呂布、袁術などと闘いながら覇業を進めていきます。後漢の献帝を手中に収めるとともに、強敵であった呂布を倒した後、曹操にとっての最大のライバルは河北の袁紹でした。
河北四州を領する袁紹は最大の諸侯であり、南下して一挙に曹操の勢力を覆そうとします。こうして、曹操と袁紹の決戦である官渡の戦いが始まりました。豊かな河北四州をおさえる袁紹の兵力は曹操軍をはるかに上回り、袁紹は曹操に対して攻勢を掛けます。
しかし、曹操は、部下となっていた関羽の活躍で袁紹軍の顔良・文醜を討ち取るなどし、戦況は一進一退となります。しかし、長期戦となれば兵力で上回る袁紹が勝つことは明白であり、曹操は一貫して不利な情勢でした。
そんな中、袁紹の家臣であった許攸が裏切り、曹操に降伏します。許攸は曹操に袁紹軍の兵糧のありかを教えます。これを知った曹操は、兵糧庫を急襲することで袁紹軍の食料を焼き、袁紹軍を兵糧攻めにする策を考えました。
そして、曹操は自ら少数の精鋭部隊を率いて、袁紹軍の兵糧庫を夜襲しようとします。この策には曹操軍の名だたる群臣たちは猛反対します。それもそのはず、降伏したばかりの許攸の情報が真実だとは限らず、もしこれが罠なら一気に曹操軍は危機にさらされるからです。
しかし、曹操は迷わず自ら先陣を切って夜襲を敢行し、袁紹軍の兵糧庫を燃やすことに成功します。これによって、食糧を失った袁紹軍は崩壊し、官渡の戦いは曹操の勝利に終わりました。
この時の曹操の作戦は無謀なものではありませんでした。曹操は初めから、家柄を鼻にかけて臣下の意見に耳を貸さない袁紹に家臣たちが不満を抱えていることを知り、貪欲な性格の許攸が袁紹よりも曹操につく方がより大きな利益を得られることに感づいて降伏してきたことを見抜いており、そんな許攸が偽の情報を伝えるはずがないと考え、思い切った奇策に打って出たのです。
この一連の曹操の決断は決して一か八かの博打ではなく、冷静な人間観察から導き出された策だったと言えるのです。しかし、自分の考えを信じ、乾坤一擲の策に打って出ることは常人にはできません。ここからも、英雄・曹操の持つ卓越した決断力を見て取ることができます。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。今回は「決断力」という面から、曹操について見てきましたが、やはり自らを信じ、あれこれ思い悩むことなく、自分の策に身を投じることができる曹操は、常人離れした決断力を持っており、「英雄」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。
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