「三国志」において、曹操の右腕としてその覇業を支えた名軍師・荀彧。しかし、荀彧の最期は悲惨なものであり、魏公への就任を目論む曹操と対立するようになり、憂いの中で病を得て亡くなります。
今回は、そんな荀彧の死とその死に対する後世の評価について見ていきたいと思います。
荀彧の出自と活躍
荀彧は163年に豫州潁川郡で生まれました。この潁川郡という土地は後漢末において、多くの人材を世に輩出しています。
例えば、荀彧以外には荀攸・郭嘉・郭図・鍾繇・陳羣・など、一度はその名を聞いたことのあるである有名人たちが挙げられます。
荀彧の一族は諸子百家の一人である荀子の末裔と言われ、荀彧の祖父・荀淑は清廉の士として人々に慕われており、その下には中央政界の権力抗争から離れ、清廉の道を追求する「清流派人士」が集っていました。
こうした清流派の人々に囲まれて育った荀彧も、清流派の名士として成長していくことになります。その後、黄巾の乱に始まる後漢末の動乱の中で、荀彧は次第に乱世を終わらせるべく、英明な人物を補佐して「天下統一」を成し遂げるという志を掲げるようになります。
大志を抱いた荀彧は自分の夢を託すべき武将を探し求め、初めは袁紹に仕えますが、袁紹の器の小ささに失望して袁紹のもとを去ります。その後、いまだ駆け出しであった曹操に非凡な才を見出し、彼に仕官します。
曹操も「王佐の才」とまで謳われた名軍師・荀彧の仕官を喜び、漢を打ち立てた英雄・劉邦を支えた軍師・張良にたとえて「我が子房」と呼ぶほどでした。
この後、荀彧は曹操の腹心として、数多くの献策を行って曹操の勝利に貢献するとともに、持ち前の優れた人物観察眼を生かし、国家の柱石とも言うべき有能な人材を数多く曹操に推薦することで、曹操陣営を大きく発展させています。
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「正史三国志」における荀彧の憤死
しかし、そんな「王佐の才」に恵まれた荀彧でしたが、先述したように憂いに満ちた憤死を遂げてしまいます。その経緯は、文献によって異なりますが、「正史三国志」では以下の通りです。
212年(建安17年)、曹操の家臣であった董昭は、朝廷が曹操に九錫の礼物を与え、魏公に封ずるべきと主張します。九錫の礼物は、皇帝にも並ぶ恩典の数々であり、臣下がこれを受けるということは帝位を窺うことを世に示すことでもありました。
事実、前漢から「禅譲」によって帝位を獲得した王莽は、「禅譲」を行わせる前に九錫の礼物を受けています。
これを聞いた荀彧は、後漢王朝への忠誠心を捨てきれず、曹操が九錫の礼物を受け、魏公となることに反対します。これを聞いた曹操は不快感をあらわにしたと「正史三国志」には記録されています。
とはいえ、曹操は長年ともに戦った荀彧を粗略に扱うことはせず、呉と戦う兵士たちの慰問のために徐州へ派遣します。しかし、後漢王朝の帝位を狙う曹操への忠誠心と、後漢王朝そのものへの忠誠心で板挟みになった荀彧は間もなく病を得て亡くなってしまいました。
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ほかの文献における荀彧の憤死
「正史三国志」では以上のように記述されている一方、ほかの文献ではいずれも荀彧が憤死している記述はあるのですが、その経緯は異なります。
例えば、「正史三国志」の注に引用されているほかの文献の記述を見ていくと、『魏氏春秋』なる書物によれば、荀彧はある日曹操から空の器を送られたのを見て、「自分はもはや必要とはされていない」と悟り、服毒して自害します。
また、『献帝春秋』によれば、曹操が自らに反乱を起こそうとした董承を処刑した時、献帝の家臣であった伏完は、自分自身や娘である伏皇后、そして献帝自らが曹操への復讐を企てているとの書簡を荀彧に届けますが、荀彧はそれを曹操に報告せずに隠してしまいます。
これに気付いた曹操は激怒し、以降荀彧と曹操の関係は悪化し、伏皇后と曹操が対立した際には、曹操は当てつけのように荀彧に伏皇后を殺すように命令し、これに従わなかった荀彧は自殺を選んでいます。
そして、『三国志演義』では、やはり魏公就任に荀彧が反対した結果、荀彧と曹操の関係が悪化し、荀彧は自害に追い込まれています。以上のように、いずれの文献でも、荀彧の死は長年仕えた主である曹操との対立の結果、非業の死を遂げるという悲惨なものとなっています。
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荀彧の憤死の後世への受容
こうした荀彧の悲劇的な死は、後世の人々からも悼まれています。特にその死は、臣下の道を逸脱して九錫の礼物と魏公就任を求めた曹操を諫めた結果の憤死であったことから、荀彧を後漢王朝の忠臣として評する声が多いように思います。
例えば、「正史三国志」を編纂した陳寿は、同じく曹操の軍師であった荀攸・賈詡らとともに荀彧の伝を載せていますが、これは注釈者であった南朝宋の裴松之から批判されています。裴松之いわく、清廉潔白な忠臣である荀彧と、裏切りを繰り返す梟雄の賈?を並べるのはおかしい、とのことです。
また、「後漢書」を編纂した南朝宋の范曄は、荀彧を「荀彧の進む道と曹操の進む道は対立したが、荀彧はあくまで正道を進み、自らを犠牲にして仁義を貫いた」と称賛しています。
そして、「資治通鑑」を編纂した北宋の司馬光は、「建安年間の初め、天下は大いに乱れて、漢王朝は寸土も支配しえなかった。しかし、荀彧は曹操を助け、曹操は天下の八割を得た。
このような功を挙げた荀彧は春秋時代の斉の管仲にも匹敵する。また、管仲は主の子糾のために死ななかった(新たな主の桓公に乗り換えた)のに、荀彧は漢王朝のために死んだ。その仁義は管仲をも凌駕している。」と最大級の称賛を送っています。
しかし、一方で荀彧に対する批判もあります。唐の杜牧は、「荀彧が曹操に兗州を取らせたときには高祖劉邦や光武帝を引き合いに出し、官渡の戦いで許昌に引き返させなかった時には、楚漢の戦いにたとえた。(曹操の行動をかつての帝王の覇業になぞらえた)
それなのに、まさに曹操の覇業が成らんとするときになって、荀彧は大義名分を滅びゆく漢王朝に見出した。これは、盗賊のために壁に穴をあけ、棺を開けた後に盗賊と手を切ったようなもので、荀彧が盗賊で出ないと言えるだろうか?」と言い、荀彧の行動を偽善として批判しています。
このように、荀彧の憤死は三国志の中でも悲劇的なシーンであるだけに、古来よりその死は人々の間で語り草となっていたのですね。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。曹操を長年支え続けた荀彧が、晩年には曹操と仲たがいした上に憤死というのは、あまりにも悲しい話のように思えます。だからこそ、古来より荀彧の死については様々な物語が付せられ、毀誉褒貶様々な評価が下されてきたのでしょう。
いずれにせよ、荀彧の死が三国志の中でも一・二を争うほどの悲劇的なシーンであることは変わりありません。皆さんは荀彧の死を見て、どのように受け止めたのでしょうか。
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