「はじめての三国志」読者の皆様、あけましておめでとうございます。
本年も、「はじめての三国志」を宜しくお願い致します。
ところで、皆様は初夢をご覧になりましたでしょうか?
古代中国にも、夢で見た内容を分析し吉兆を占う『夢占い』がありました。
しかし、中国の夢占いは漢の時代以降、衰退してしまいました。
果たして、何が原因で夢占いは衰退してしまったのでしょうか?
関連記事:三国志の時代の年末からお正月の過ごし方!当時の食生活も見えてくる!
関連記事:三国時代の料理と酒って何を食べてたの?英雄たちの宴が気になる
この記事の目次
古代中国で、夢占いはさかんだった
現代の私たちにとって、夢診断というとフロイトやユングの心理学を
ベースとしたものというイメージが強いでしょう。
中国の夢占いはそれよりはるか以前、
春秋戦国時代にはすでにさかんに行われていたようです。
諸子百家のひとつである儒家が経典とする書物(経書)のひとつ、
『周礼』(しゅうらい)に合計360もの官職(六卿・りくけい)
について述べている部分があります。
この官職のひとつとして夢占いを司る『占夢の官』についての記述があります。
そもそも周礼とは何?
『周礼』は紀元前1000年頃にあった
王朝、周の政治家である周公旦(しゅうこうたん)が記した書物とされていますが、
実際には戦国時代に成立したものと考えられています。
逆に言えば、戦国時代の頃には、
王朝の官職として夢占いを職務とするものがあったことにもなりますね。
関連記事:諸子百家(しょしひゃっか)ってなに?|知るともっと三国志が理解できる?
関連記事:儒教(儒家)ってどんな思想?|知るともっとキングダムも理解できる?
関連記事:よくわかる!周の成立から滅亡をざっくり分かりやすく紐解く
史書にも多くの夢に関する記録
『周礼』以外の経書にも、夢占いに関する記録を見出すことができます。
また、史書である『漢書』にも「黄帝長柳占夢」や「甘徳長柳占夢」
という夢占いに関する記述がある他、『史記』を始めとする数多くの史書に、
夢に関する記録や記述が数多く残されています。
魏延が見た不吉な夢
蜀の将軍であった魏延(ぎえん)が頭にツノが映える夢を見たという話があります。
その話を聞かされた費禕(ひい)が
「角という字は刀を用いると書く。頭に角が生えるとは、首を切り落とされる暗示だ」と語ったとされています。
このくだりは、正史にあった記述を脚色し、
本来諸葛亮とは関係のなかった逸話を彼の死に絡めて描いたものです。
関連記事:諸葛亮の死因は過労死らしいけど、一体どんな仕事してたの?
関連記事:魏延(ぎえん)ってどんな人?|裏切り者?それとも忠義の士?
関連記事:【能力高すぎワロタ】仕事のできる蜀の三代目トップ費禕(ひい)エピソードも紹介!
関連記事:蒋琬(しょうえん)ってどんな人?孔明の後継者として蜀の安定を図った政治家
中国の夢占いの方法とは?
古代中国の夢占い=夢の解釈の仕方には、
大きく分けて3つの方法があったようです。
(1) 直解
呼んで字のごとく、夢の中で見た出来事がそのまま現実に起こるとする見方です。
殷王朝の第22代王であった武丁はある夜、説(えつ)という名の聖人
と出会う夢を見て、その人物を臣下の者に探させました。
すると、道路工事に従事する労働者に同じ名を持つ者が見つかり、
会ってみると夢で見た聖人と同じ顔をしていました。
説と話をした武丁は、彼が本当の聖人であることを知り、
彼に傅(ふ)という苗字を与えました。
武丁は傅説(ふえつ)の補佐を得て、衰えていた王朝を復興したということです。
(2) 転釈
直解は最も素朴な夢占いの方法として最も早い時代から行われていました。
しかし当然ながら、その方法ではほとんどの夢が解釈できません。
夢というものは脈絡がなかったり、前後の繋がりがおかしかったりするからです。
そこで考えだされたのが「転釈」と呼ばれる方法です。
「転釈」は見た夢をまず決まった形式に転換し、その上で解釈して
そこから予兆を読み取ろうと言う方法です。
このことによって夢の解釈が自由になり、
夢占いをする者の活躍の場を増やしました。
(3) 反説
転釈は夢を診断する自由度を高め、夢占いの幅を広げましたが、
明らかに事実に反する夢を見た場合、それを解釈するには限界がありました。
そこで考えだされた手法が「反説」です。
反説とは字を見ても分かる通り、
夢を反対に、あるいは逆転させて解釈するという方法です。
これによって、一見悪い兆候であるように見える夢からでも、
吉兆を読み取ることができる、というわけです。
こう書いてしまうとなんだか「なんでもあり」って感じですよね。
しかし、日本でも「正夢」と「逆夢」なんていう言葉がありますし、
夢占い(夢診断)というものは元来そういうモノなのかもしれません。
夢占いは漢の時代以降、衰退
春秋戦国時代には専門の官職が置かれるほどさかんに行われていた
夢占いですが、漢の時代以降は衰退してしまいます。
後漢時代の思想家である王充(おうじゅう)は、その著作である
『論衡』の中で、夢占いを俗信として大いに批判。
また、同じく後漢時代の思想家である王符(おうふ)も、
その著書『潜夫論』において夢占いの方法を10種類に分類し、
そのいずれもが夢を曲解させる原因として批判しました。
夢占いを批判的に見る風潮が広まる中、
夢占いを専門とする官職は廃止、あるいは地位降格されるに至り、
やがて夢占いそのものが衰退していったと考えられています。
関連記事:三国志を楽しむならキングダムや春秋戦国時代のことも知っておくべき!
関連記事:始皇帝が眺めていた星空から星座が分かる。凄い!ギリシャ神話にも劣らない中国の星座
なぜ夢占いは衰退したの?
古代中国の夢占いが衰退した背景には大きく2つの要素があったと考えられます。
ひとつは、諸子百家のひとつである道家(老荘思想)の影響です。
道家の思想において有名な「胡蝶の夢」という話があります。
蝶になる夢を見た男が、自分は人間になった夢を見ている
蝶なのではないか、と疑うというのがというものです。
この「胡蝶の夢」に見られるように、老荘思想では夢というものを曖昧で、
解釈のしようによっていかようにも解釈できるとされています。
そうした老荘思想の考え方が広まると共に、夢というものの信ぴょう性
そのものを疑う人が増えていったと考えられます。
もうひとつは、『易』の存在です。易を体系化した古典的経典である
『易経』は、儒家の思想の基本とされる『五経』のひとつとされます。
儒家思想の広まりと共に、易が中国における占いの中心的存在となっていきました。
この易に押される形で、夢占いは衰退していったものであると考えられます。
関連記事:老荘思想の創設者|老子と荘子の二人を分かりやすく解説してみた
関連記事:キングダムの時代に開花した法家の思想
三国志ライター 石川克世の独り言
漢代以降衰退してしまった中国の夢占いですが、
夢そのものに関する記録や記述は、その後の時代の史書にも数多見出すことができます。
占いの元としては使われなくなっても、やはり夢は気になるものだったのでしょうね。
それでは、次回もお付き合いください。
再見!!