

三国志に少し詳しい人なら、三国志は、司馬懿(しばい)の孫の司馬炎(しばえん)の天下統一で、終了し、晋という国が建国される事をご存じだと思います。
でも、その後・・となると説明できないのではないでしょうか?
そこで、はじさんでは、超カンタンに、三国志その後を解説しちゃいます。
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この記事の目次
- 五胡十六国(ごこ・じゅうろくこく)時代って何、それ美味いの?
- 時代をリードする前趙、晋を滅ぼす
- 抵抗を続ける晋、長江を渡り、東晋を建国
- 華北統一は間近に見えた、前趙、まさかの分裂
- 前趙VS後趙の抗争は
- 後趙が、華北を統一・・すると思いきや、、
- 石虎、鬼畜な所業で漢族の反感を買い、後趙滅亡
- 冉閔、漢民族至上主義を唱え、異民族を追放する
- 冉魏、内乱で弱体化し、前燕に滅ぼされる
- 氐族、陝西地方で前秦を建国する
- 華南の東晋、華北の争乱に介入する
- 華北では、前燕と前秦が激突して、前秦が勝利する
- どうして、前秦の苻堅は強かったのか?
- 苻堅、奢りから東晋に敗れ、前秦も滅びる
- 争乱の華北を統一したのは意外な勢力だった
- 北魏VS夏、華北統一の最期の戦い
- 三国志ライターkawausoの独り言
五胡十六国(ごこ・じゅうろくこく)時代って何、それ美味いの?
司馬炎の天下統一は西暦280年ですが、それから30年もしない間に、八王の乱というものが起きて、晋は衰退します。
八王の乱は、簡単に言うと司馬一族の諸王が、次の皇帝を目指して内乱に明け暮れたという話です。この内乱には、曹操が人口増加政策で中原に引き入れた異民族が傭兵として大勢参加していました。そして、この事が大きな悲劇を生む事に繋がるのです。
西暦304年、晋の弱体化で司馬一族に従っていた匈奴の傭兵隊長の劉淵(りゅうえん)が山西の離石(りせき)で匈奴大単于(きょうど・だいぜんう)を名乗って独立します。この劉淵の国は、後に前趙(ぜんちょう)を名乗ります。
これを皮切りに、巴賨(はそう)族の李雄(りゆう)が四川で成都王を名乗って独立し、国号を成漢(せいかん)としました。
また甘粛では、晋の涼州刺史であった張軌(ちょうき)が自立しました。ここは独立せず晋に服属し前涼(ぜんりょう)国を名乗ります。こうして、最初に、前趙、成漢、前涼という3つの国が産まれました。張軌以外は、異民族の出身です。
今更、言っても遅いですが、人口が少ないからと、簡単に異民族を中華の領地に入れてしまった曹操が一番悪いです。
好き放題された晋ですが、内乱で疲弊していて、討伐も出来ません。このようにして、五胡(5つの異民族)が次々と十六もの国を乱立させるという五胡十六国の時代が幕を開けるのです。
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時代をリードする前趙、晋を滅ぼす
この3国の中で、一番強かったのが、劉淵の起した前趙です。漢族、匈奴を問わず優秀な人材を登用して、瞬く間に山西一帯を制覇すると西暦306年に漢皇帝を名乗ります。
しかし、劉淵は、西暦308年に死亡、王位は一旦、息子の劉和(りゅうわ)が継ぎますが、人望がなく、劉淵の弟の劉聡(りゅうそう)が3代目の皇帝になります。そして、西暦311年、洛陽を陥落させ、晋の皇帝、懐帝(かいてい)を捕虜にして、ここに事実上、晋は滅亡します。
抵抗を続ける晋、長江を渡り、東晋を建国
洛陽は落ちましたが、司馬一族の残党は、長安で蜂起して慇帝(いんてい)を立てて劉聡に抵抗しました。しかし、劉聡の敵ではなく、西暦316年には滅亡、ここに司馬炎が起した晋は完全に消滅します。
しかし、遠征で長江を渡っていた、王族の司馬睿(しばえい)は、慇帝が殺された事を知ると、自ら建業で即位して晋の元帝になります。これは、東晋と呼ばれ、司馬炎が起した晋とは区別されます。
華北統一は間近に見えた、前趙、まさかの分裂
さあ、普通なら、ここで、長江を挟んで、前趙と東晋が睨みあうという南北朝になりそうですが、事は、そう簡単ではありません。実は異民族同士って、漢族以上に仲が悪い実力主義なんです。
西暦318年、この肝心な時に、前趙の劉聡が死んでしまうのです。多少のゴタゴタの後、皇位は、部族の中で一世代下の劉曜(りゅうよう)が継ぎます。
ですが、この頃、前趙の有力武将である石勒(せきろく)は遠征に出ていてこの人事に従わず河北で自立して、大単于趙王と名乗ります。
同じ趙王を名乗っているという事は、「俺が皇帝、劉曜は偽物だ」と言っているわけです。ここで、趙は、劉曜の前趙と、石勒の後趙に分裂します。ああ、ややこしい、せめて別の国号にしろよ、石勒・・
前趙VS後趙の抗争は
石勒は、鮮卑族と組んで勢力を伸ばし、河北、河南、山東を制覇して、洛陽を境に10年に渡り、睨みあいを続けます。しかし、劉曜は次第に皇帝の贅沢な生活に慣れていき、堕落しました。
西暦328年、劉曜は、後趙に占領された洛陽を奪還しようと親征軍を起しますが、洛陽を守る、石勒の甥の石虎(せきこ)に撃破され、殺されてしまいます。翌年、劉曜の子の劉煕(りゅうき)は父の仇を討つべく進軍しますが、これまた、石虎に大敗して殺されます、、こうして劉淵が興した前趙は、西暦329年に滅亡しました。
後趙が、華北を統一・・すると思いきや、、
前趙を滅ぼした、石勒は西暦330年に皇帝に即位します。やっと、華北統一が成るかと思いきや、またもや、またもや!石勒が333年には死去します。
もう少し、長生きしてくれよ~~~~~~(怒)
さあ、嫌なデジャブがしてきた人、大正解!!
後を継いだ石広(せきこう)が即位するも、前趙を滅ぼした功労者、石虎が!あの、ストーンタイガ―が不満を持ちました。こうして、石虎は、石広を殺して自ら、皇帝に即位します。
石虎、鬼畜な所業で漢族の反感を買い、後趙滅亡
石虎は、即位すると、都を北の鄴(ぎょう)に移します。その背景には、遼東で勢力を伸ばしていた前燕(ぜんえん)の存在がありました。かつては、袁紹(えんしょう)が、そして曹操(そうそう)が本拠地にした北方防衛の要です。
ところが、石虎は、武勇があるが、残忍無比な人物でした。特に、元の中国の支配者、漢族を激しく弾圧して虐待していたようです。
この徳の無さは、自身に跳ね返ります。溺愛していた、息子の石韜(せきとう)が皇太子の石宣(せきせん)に殺されると石虎は怒り狂い、石一族の多くを虐殺してしまいました。
西暦349年、石虎は死亡、皇位は石世(せきせい)が継ぎますが、一族の石斌(せきひん)に殺され、石一族による皇位継承争いが起きます。はい、お決まりのお家騒動です、晋の場合と同様ですね
後趙の争いの中から石閔(せきびん)という人物が登場します。石閔は、元々は漢民族で冉閔(ぜんびん)といい、石虎の養子でした。彼は、勇猛でしたが屈折した暗い執念を持つ人物で、
「国を混乱させたのは、他所から入って漢族の財産を略奪した異民族共だ、必ず追い出してやる」と考えていました。
こうして、彼は、石一族を尽く殲滅して、後趙を滅ぼすと、西暦351年に、魏を建国しました、これを冉魏(ぜんぎ)と言います。
冉閔、漢民族至上主義を唱え、異民族を追放する
冉閔は、皇帝になると、漢の大地に争乱を呼び込んだ異民族を排斥しようとします。
まるで、ガンダムに出てくる地球人至上主義のジャミトフのようです。
「聞け!優秀なる漢族の諸君! 晋の滅亡以来、我らが母なる大地を蹂躙し、同胞の尊い血を流せしめたのは、憎っくき胡族である!これを排斥し、皆殺しにせよ!母なる大地は漢族のモノだ!」
後趙の領内の漢族は、これに呼応して、大規模な異民族殺戮が起きます。この中でまた、異民族同士の殺戮も発生して被害を拡大させました。呼びかけで殺された異民族は三十万を越えると言われ、多くが逃げるようにして西へと脱出していきました。
冉魏、内乱で弱体化し、前燕に滅ぼされる
しかし、冉閔の気は済んだものの、内乱は冉魏の国力を低下させます。西暦352年、前燕の将軍、慕容恪(ぼようかく)は、内乱に乗じて魏に攻め込み、連戦連勝し、異民族絶対殺すマンの冉閔を捕え処刑します。
ここに魏は滅び、前燕の王、慕容儁(ぼようしゅん)は、本拠地を龍城(りゅうじょう)から、鄴に遷都して皇帝に即位しました。
氐族、陝西地方で前秦を建国する
その頃、後趙の大混乱で、勢力が及ばなくなった、陝西地方では、氐(てい)族の苻洪(ふこう)が独立して秦王を名乗ります。息子の苻健(ふけん)は、父の死後、軍勢を進めて長安を陥落させ西暦351年、秦皇帝に即位、これが前秦(ぜんしん)という国です。
華南の東晋、華北の争乱に介入する
華北地方の混乱に乗じて、中原奪回の悲願を達成しようと、東晋の将軍、桓温(かんおん)は軍勢を派遣して四川を東晋の支配下に組み込みさらに西暦354年に北伐を敢行しますが、この時は、前秦の前に撃退されました。
しかし、2年後に、再び、北伐を行い今度は洛陽を陥落させます。前趙の劉聡に都を追われてから、実に40数年ぶりの帝都奪還でした。ところが、前燕の慕容恪が364年に洛陽を再奪還したので、東晋が洛陽を維持していたのは8年に過ぎません。
華北では、前燕と前秦が激突して、前秦が勝利する
華北では、横暴な政治を行った、前秦の苻生(ふせい)をクーデターで倒した苻堅と前燕の慕容恪が華北を東西に分けて睨みあいをしますが、西暦370年、慕容恪が病死して、前燕が揺らぐと苻堅はこれを攻撃して、遂に、華北を統一します。
さらに、甘粛の仇池(きゅうち)、山西に割拠していた鮮卑拓跋部(せんぴ・たくばつぶ)の代(だい)と、漢民族の張軌が興した前涼を滅ぼし、それに加えて朝鮮半島の高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)を朝貢国にするなど勢力を伸ばしました。
どうして、前秦の苻堅は強かったのか?
苻堅の強さの秘密は、博愛主義ともいうべき、平等な登用方法でした。前秦は、様々な民族の寄せ集めの軍団で、諸葛孔明(しょかつこうめい)の再来と言われた、宰相の王猛(おうもう)は漢民族、部下には、羌族も、鮮卑も、匈奴も、なかには、東晋から登用した将軍もいました。
苻堅は気味が悪い程に寛容な人物で、降伏した異民族の王族を殺さず長安に立派な屋敷を建てて住まわせ交流しました。憎しみ合いで勢力を減らした、冉魏を教訓にして、苻堅は、包容力のある政治で前秦を強くしたのです。
苻堅、奢りから東晋に敗れ、前秦も滅びる
華北を統一した苻堅は、中国統一の野望を持つようになります。宰相の王猛は、それは時期尚早と諌めていましたが、西暦375年には死去してしまいます。
苻堅は王猛の遺言を無視し、また、沢山の家臣の反対を全て押し切り、西暦383年に100万と号した大軍で、淝水(ひすい)を挟んで、東晋の謝安(しゃあん)を都督とする8万と対峙します。
苻堅は、東晋軍に河を渡らせてから攻撃しようと後退命令を出します。ですが、これを撤退命令と勘違いした兵士が出たので、後退は止まらず、軍は大混乱します。
これを見た、司令官の謝玄(しゃげん)は、前秦軍に突撃、前秦軍は総崩れになり苻堅も負傷、僅かな兵力を率いて長安に逃げ帰りました。100万いた兵力は20万まで激減し、前秦の勢力は大きく後退、この時、苻堅が優遇していた異民族は各地で蜂起します。
こうして、やっと統一した華北は再び分裂、苻堅も将軍だった羌族の姚萇(ようちょう)によって捕えられ、強引に禅譲を迫られ拒否し、絞殺されてしまいます、西暦394年、前秦は滅亡しました。
争乱の華北を統一したのは意外な勢力だった
こうして、前秦が倒れた、華北は、後燕、西燕、代、後秦、西秦、後涼、夏(か)、北涼、南涼、西涼、南燕というような勢力に分裂しました。苻堅が、極端な懐柔策を取ったので、その配下が独立して銘々で国を建てたというような感じです。
これらの国の中で、華北では、苻堅を殺して後秦を興した姚萇、そして、前燕の王族である、慕容垂(ぼようすい)が興した後燕(こうえん)が盛んになります。両国は、再び、華北で勢力を伸ばし、また、睨みあいになるかと思われました。
北魏VS夏、華北統一の最期の戦い
ところがそこに、代から北魏(ほくぎ)に改称した鮮卑拓跋部、また、匈奴出身の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が興した夏が加わり、四つどもえの激しい争いになります。後燕の慕容垂は、北魏を打ち破ろうと、軍を派遣しますが、大敗、翌年には敗戦のショックで慕容垂が死去、服属国も離反し領土のほとんどを北魏に奪われます。
夏は、元々は、後秦の配下でしたが離反して、後秦を攻撃し、その領地の大半を奪いました。弱体化した、後秦は、東晋の将軍、劉裕(りゅうゆう)の北伐軍により長安を攻め取られ西暦417年に滅亡します。
劉裕が帰還すると、夏は長安を奪い、北魏と対峙します。しかし、西暦425年、夏の建国者の赫連勃勃が死去します。それにより夏は急激に弱体化、それを見た、北魏の太武帝、拓跋燾(たくばつ・とう)は、夏を攻撃して撃破、赫連勃勃の息子達も次々に破り、西暦431年には夏を滅ぼしました。
北魏はさらに、436年に北燕(ほくえん)を滅ぼし、439年には、甘粛を統一していた北涼(ほくりょう)を滅ぼして、ついに、華北を統一します。
晋が西暦316年に滅亡してから、すでに123年の歳月が経過しておりましたが、まだ半分かいな、どれだけ長いねん!!
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三国志ライターkawausoの独り言
同じ頃、華南では、将軍劉裕が東晋皇帝に禅譲を迫り、宋を建国していました。ここに西暦439年で、五胡十六国時代は終わり南北朝時代が幕を開くのです。
「え?中華統一ですか」
統一はさらに150年後、南北朝を終結させた隋の楊堅の登場を待たないといけません。
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