横山光輝氏の『三国志』初期で黄巾軍討伐に出陣した劉備は、張角と戦っている盧植の援軍に向かいます。盧植は劉備の幼い時の師匠でした。彼はその後、宦官の左豊に賄賂を渡さなかったことにより失脚。
盧植はそれから2度と登場しませんが実は盧植には息子がいました。名前は盧毓。彼は司馬懿の側近として働きます。今回は正史『三国志』をもとに盧毓について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
この記事の目次
父の盧植
盧毓は光和6年(183年)に盧植の末っ子として生まれました。父の盧植は一流の儒学者であり、また武将でもありました。先述したように盧植は初平元年(184年)の黄巾の乱に従軍しますが、賄賂を渡さなかったことから失脚。
その後は復職しますが中平6年(189年)に董卓が政権を握ると、これに反対した態度を表明。最初は董卓から殺されそうになりましたが、周囲の人々のおかげで助かりました。しかし朝廷にいると董卓に命を狙われる可能性が高いと感じた盧植は辞職してしまいます。
盧植の死
初平3年(192年)に董卓が殺されると、盧植は袁紹からスカウトされました。この話は有名ではないので知らない人は多いでしょう。袁紹は当時、河北の覇権をめぐって公孫瓚と争っていました。公孫瓚の政治スタイルは知識人抑圧型でした。
一方、袁紹は知識人優遇型。袁紹は一流の儒学者である盧植を自分の政権に入れておくことで、河北の知識人を味方につける姿勢を示したのでした。
だが、運が悪く盧植は袁紹のもとに到着すると亡くなってしまいました。彼が生きていれば袁紹が官渡で曹操に負けることはなかったかもしれません・・・・・・
放浪の旅
盧植が死んだ時点で盧毓は10歳でした。武器もろくに持てない年齢です。やがて袁紹と公孫瓚の戦いは激しくなり、盧毓の2人の兄は戦争に巻き込まれて亡くなりました。残されたのは兄嫁と甥。幼い盧毓は必死で生き抜きました。その間のことについては史料は何も語っていませんが、おそらく想像を絶するものだったでしょう。
盧植が仕えた袁紹は建安5年(200年)に官渡の戦いで敗北して2年後に病死。その5年後に袁氏も滅亡。曹操は河北を手に入れました。盧毓はこの時、30歳でしたが未だに無位無官でした。
曹丕からのスカウト、崔琰からの推薦!
建安16年(211年)、34歳になった盧毓は曹丕からスカウトを受けます。いつもなら曹操なのですが、意外なのことにこの時は曹丕でした。おそらく曹丕・曹植の後継者争いが始まっていたので、そのための仲間を集めるためと考えられます。
ちなみにこの時に、盧毓を推薦したのは崔琰でした。崔琰は「北海グループ」の1人です。北海グループというのは専門的な用語なので少し解説が必要です。簡単に言えば青洲北海出身である孔融・鄭玄などを中心とした知識人の派閥です。
どんな人々が所属しているかというと、鄭玄・孔融・王朗・華歆・邴原・王修・管寧・国淵・崔琰・崔林・王基・・・・・・
有名からマニアックなキャラクターまで勢ぞろいです。盧毓はこの時、崔琰からの推薦で孫礼と一緒に北海グループに入ります。孫礼は横山光輝氏の『三国志』にも登場していました。曹叡を虎から救ったという設定になっている人です。思い出した読者の皆様はマニアです。
さて、盧毓は後年に司馬懿の片腕として働くのですが、いつごろから交流が始まったのか史料は何も記されていません。ただし、盧毓も司馬懿も崔琰の推薦という共通点がありました。このことから盧毓は出仕当初から司馬懿と交流があったと推測されます。
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