正始10年(249年)に司馬懿は政敵である曹爽を倒すためにクーデターを起こしました。
後世、「高平陵の変」と呼ばれるものです。司馬懿の息子である司馬師・司馬昭も従軍。司馬昭は当日までクーデターを行うと知らなかったそうです。ところで司馬昭の父である司馬懿が敵対した曹爽はどのような政策を行っていたのでしょうか?
今回は正史『三国志』をもとに、曹爽が行った政策について解説します。
この記事の目次
曹真の子 曹爽
曹爽自身は曹操の「族子」の1人である曹真の息子です。族子とは一族の子供という意味です。ただし、曹真の本当の名字は「秦」なので曹真の本名は秦真。なんだか語呂が悪い名前ですね・・・・・・
曹爽の側近たち
曹爽の側近には以下の人がいました。
(1)曹義・・・・・・曹爽の弟
(2)曹訓・・・・・・曹爽の弟
(3)何晏・・・・・・曹操の養子。後漢(25年~220年)の大将軍の何進の孫。
(4)鄧颺・・・・・・後漢開国の功臣鄧禹の子孫。蜀(221年~263年)の鄧芝の親戚。
(5)丁謐・・・・・・曹操最初の妻である丁夫人の一族
(6)畢軌・・・・・・外戚(=皇帝の一族)
(7)李勝・・・・・・曹爽の友人であり夏侯玄の部下
(8)桓範・・・・・・曹操と同郷の指導者的立場の人物
(9)夏侯玄・・・・・・外戚。曹爽の父方の姉妹の子。
(10)諸葛誕・・・・・・蜀の諸葛亮の親戚。おそらく諸葛氏本家の人と推測される。
(11)李豊・・・・・・外戚
まだいるのですが、とりあえずこれぐらいにしておきます。共通しているのは一族や名門で固めていることでした。なによりも彼らは「浮華事件」に巻き込まれていたのです。
浮華事件とは?
浮華事件とは魏(220年~265年)の太和6年(232年)に董昭が、「学問を本業とせず、交遊だけを仕事としている人物がいる」と告発。告発された人々は「浮華の徒」と言われました。
その結果、夏侯玄・諸葛誕・李勝などは処分された。なお、魏の第2代皇帝である曹叡も、この処分には賛成していました。この事件は周囲の名声や口だけで全く仕事をしない、2世・3世の政治家を処分するのが目的だったのです。
曹爽の政策
やがて曹叡が亡くなって曹芳が即位すると、曹爽は浮華事件で処分された人々を呼び戻しました。
曹爽たちは早速、政策に取り掛かります。まずは曹爽の弟の曹義と曹訓の2人で禁軍(近衛兵)を統括。さらに対蜀戦線の司令官に夏侯玄が、対呉戦線に諸葛誕と文欽を派遣します。要するに首都と地方を自派で固めたのです。
また、尚書省も何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李豊で固めました。尚書省は人事権を握っていたのです。人事を担当するのは吏部尚書という役職でした。曹爽政権発足当時、吏部尚書は盧毓が担当していました。彼は盧植の息子であり、司馬懿と親しい関係です。当然、彼は何晏によって政権中枢から追われました。
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