魏に張遼という名将がいれば、呉には太史慈という猛将がいます。張遼と太史慈というこの二人は『三国志演義』ではライバルであったかのように描かれています。しかし、『正史』を読むと二人の関係は全く異なった描かれ方をされているのです。
そこで今回の記事では、そんな張遼と太史慈の関係を見ていきたいと思います。
この記事の目次
張遼とはどんな人物だったか?簡単な紹介
張遼は并州雁門の生まれであり、初めは同じ并州出身の呂布とともに并州刺史丁原に仕えていました。
その後、丁原の死後は董卓に仕え、董卓の死後は呂布の部下となります。しかし、呂布が曹操・劉備との戦いに敗れて敗死すると、張遼は曹操の配下に加わりました。
その後、張遼は魏と呉との国境である合肥に駐留し、呉の侵攻から国境を守る任務を果たしていました。『演義』に登場する張遼と太史慈の対決は、そんな合肥を巡る攻防戦の中で起こりました。
関連記事:張遼の逸話から分かる合肥の鬼神!ウルトラハイパー武将を考察
関連記事:孫権vs張遼! 第1次合肥戦役と豪傑・太史慈の最期
太史慈とはどんな人物だったか?簡単な紹介
太史慈は青州東莱の生まれであり、初めは東莱郡の官吏となり、黄巾党に襲われた恩人の孔融を助けるなどの功績を挙げました。
その後は揚州刺史の劉繇に仕え、劉繇と孫策が戦った際には果敢にも孫策に一騎打ちを挑み、孫策の兜を奪い取るなどの猛将ぶりを見せています。
劉繇が孫策に敗れたあとも孫策との戦いを続けますが、敗れて捕らえられます。太史慈の武勇を高く評価した孫策は彼を部下としたため、以後は孫策・孫権の武将として活躍することになりました。
関連記事:黄巾の乱を起こしたのは2世紀の感染爆発だった!【文明と疫病の三国志】
関連記事:天道思想とは?道教との関わりや天道思想と易姓革命の歴史的意義
『演義』における張遼と太史慈の戦いその1:合肥の戦いと太史慈の策略
以上、張遼と太史慈の簡単な人物紹介を述べましたが、ここからは『演義』に見られる張遼と太史慈の戦いについて見ていきたいと思います。
赤壁の戦いで曹操を討ち破った後、勢いに乗る呉の孫権は領土を広げるために徐州への侵攻作戦を行います。孫権が狙ったのは魏の前線基地である合肥でした。
ここには張遼・楽進・李典ら魏の名将たちが揃っていたのですが、当時は、曹操率いる魏の主力軍が漢中遠征に出払っており、合肥への援軍を送ることが難しいという孫権にとっては絶好の機会だったのです。
孫権は大軍を率いて合肥に攻め寄せるのですが、張遼・楽進・李典という魏の名将たちが守る合肥城をなかなか攻め落とすことができません。そこで登場したのが太史慈だったのです。
武勇に長けた猛将太史慈はまず、敵の大将である張遼に一騎打ちを挑みますが、引き分けに終わってしまいます。そこで、太史慈は次に策略を用いて勝負しようとします。
太史慈の策略とは、部下の戈定という人物を利用して魏軍を攪乱しようとするものです。戈定の弟は張遼の馬小屋番人として魏軍に加わっていたため、戈定の弟を内通させて魏軍に混乱を起こさせ、その隙をついて合肥城を攻めるという策を実行します。
関連記事:曹操が赤壁で敗北したのは必然だった?現代アメリカの理論で見た曹操軍の弱点とは
『演義』における張遼と太史慈の戦いその2:策士策に溺れる!?
太史慈の作戦通り、ある夜、合肥城に潜入した戈定兄弟は城に火をつけ、魏軍を混乱させようとしました。しかし、そこは魏でも有数の名将である張遼。
全く慌てることなく、敵の策略を見抜き、戈定ら内通者を討ち取って混乱を鎮圧してしまいます。そればかりでなく、張遼はこの太史慈の作戦を逆手に取ります。張遼は魏兵を各所に伏せた上でわざと城門を開け、太史慈の策が成功したように見せかけます。
これを見た太史慈率いる呉軍は一斉に城内に突入しますが、張遼が仕掛けていた伏兵が一斉に襲いかかり、呉軍は敗れ、太史慈も全身に矢を受けて重傷を負います。
その後、救援のために陸遜や董襲が駆けつけたために太史慈は救出されましたが、太史慈はこの時の傷がもとであえなく死んでしまいました。以上が、『演義』に見られる張遼と太史慈との戦いでした。では、次に『正史』における太史慈について見ていきましょう。
関連記事:なぜ陸遜は人気があるの?三国志演義でも天寿を全うしている数少ない武将
【次のページに続きます】