英雄たちが綺羅星のごとく登場する三国志。物語の前半を彩った英雄たち、曹操・劉備・関羽・張飛…それらの英雄たちが世を去って五十有余年。雄大な物語にも終わりの時は訪れます。
果たして勝者は誰なのか?
今回はその三国志の結末について調べてみました。
三国の拮抗
三国志は大きく分けて三つに分かれます。曹操・劉備・関羽・張飛らが活躍する時代、諸葛亮が孤軍奮闘する時代、そしてその後…その中でも特に前二つの時代は、三国鼎立から拮抗の時代と言えます。
今更説明する必要はないかもしれませんが、三国とは曹操の魏・孫権の呉・劉備の蜀の三ヶ国のことを言います。曹操が魏公に封じられたのが建安18年(213年)その後魏王に封じられたのが建安21年(216年)です。
それを受けて、劉備が漢中王を自称したのが建安24年(219年)ですので、その辺りが三国の鼎立と言えます(ちなみに呉の孫権は呉王を自称したことはなく後に曹丕から呉王に封じられています)。
三国鼎立とともに荊州を巡る呉・蜀の衝突によって関羽が死亡すると、後を追うように曹操・張飛・劉備が立て続けに逝去。一つの時代が終わりを告げます。
古き英雄たちが去った後、先帝劉備の遺志を受けて、諸葛亮が打倒魏を掲げ北伐を繰り返します。
建興5年(227年)から建興12年(234年)の7年間に及ぶ全5回の北伐の末に諸葛亮は陣没。ここに蜀は代えの利かない偉大な人物を失うこととなったのです。
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魏の内部分裂と滅亡
稀代の天才諸葛亮の北伐を防いだ後、魏は内部で徐々に司馬氏が力をつけていきます。諸葛亮の野望を事実上打ち破った将軍司馬懿は、その後も各地で起こる反乱や呉の進軍を阻み、魏国の天下が盤石なものとなるよう務めます。
しかし魏の3大皇帝であった曹叡が死去すると、後継の曹芳が即位します。
曹叡は司馬懿と曹爽に後見を託しますが、曹爽は司馬懿を権力のない名誉職である『太傅』に任じようと画策するなど、権力を自分に集中させるように動きます。
次第に権力をほしいままにし、ついには皇帝の意思までも蔑ろにする曹爽の様子を見て、危機感を感じた司馬懿は、病と偽り隠居の身となりました。
曹爽はますます権力をほしいままにし、国家転覆を企てますが、司馬懿が隠居したとはいえ健在であることから、司馬懿への警戒を怠りませんでした。そこで司馬懿は一計を案じました。
曹爽の使者が自宅を訪ねてきたときに、あえて衣服をはだけて着、粥を食べる際にも口元からダラダラとこぼしてみせ、耳が遠くなったかのように何度も使者の言うことを聞き間違えたり、同じ話を何度もしたりと、まるで耄碌しているように装ったのです。
そうとは知らず、使者から司馬懿の様子を聞いた曹爽は、「もう司馬懿は長くなく、警戒に値しない」と判断し、備えを怠りました。
ある日、曹爽が一族と共に出かけると、司馬懿は一気に宮城を制圧。太后の詔勅を受けて曹爽を逮捕・軟禁し、死罪に処します。
これにより魏国は司馬懿以下、司馬一族による専横の末、司馬懿の孫である司馬炎に帝位を禅譲することとなるのです。
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巨星なき蜀の衰退
諸葛亮が死亡すると、蜀は大規模な北伐を控え、内政に勤しんでいました。特に諸葛亮の後任として大将軍になった費禕は「我々の力は諸葛亮に遥かに及ばない。
その諸葛亮でさえ北伐を成功させることはできなかったのであるから、我々に至っては問題外である。今は内政に力を入れ、外征は人材の育成を待ってからにすべし」と言ったと『漢晋春秋』にはあります。
しかしその費禕も死ぬと、蜀は北伐推進派の姜維を大将軍に起用し大規模な北伐を続け、国力を疲弊させていきます。
姜維が北伐に明け暮れる中、皇帝劉禅の側近に黄皓という宦官がありました。彼は劉禅の寵愛を受け、姜維からの援軍の要請を幾度も握りつぶし権力をほしいままにします。
263年、魏の実権を握った司馬昭(司馬懿の次男)が蜀征伐を開始し、姜維らは剣閣という天然の要害で抵抗をしますが、別動隊が迂回路を取り蜀の首都「成都」に攻め入り、劉禅は戦うことなく降伏。
ここに蜀は滅亡しました・・・。
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呉の分裂と衰退
かの有名な赤壁の戦いで曹操を打ち破り、前述のとおり関羽を打ち取り、夷陵の戦いで劉備をも打ち破った呉の孫権でしたが、蜀の諸葛亮に呼応する形で幾度かの北伐を慣行するも魏を打つことはできませんでした。
孫権は晩年、皇太子である孫登が若くして亡くなると、三男の孫和を太子に、四男の孫覇を魯王に封じ、二人の間で後継者争いを勃発させてしまいました
孫権は後継者争いに嫌気がさし、末子の孫亮を寵愛し、太子孫和は廃嫡、孫覇には自死を言い渡し、結果後継者として孫亮に帝位を譲ることとしました。
この後継者争いにより呉の国力は大きく疲弊し、有能な重臣たちも多く失うこととなりました。
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晋王朝の誕生と呉の滅亡
265年。司馬昭の子、司馬炎が魏より禅譲を受け皇帝となり、晋王朝が誕生します。圧倒的な国力差を覆せるはずもなく、279年に晋は呉に20万という大軍を擁して侵攻。
後に『破竹の勢い』と称される猛攻の前に呉は滅亡。ここに、三国時代は終焉を迎えたのでした・・・。
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三国志ライターみうらの独り言
三つ巴の戦いを繰り広げた三国志。その三ヶ国ともに滅亡するという結末はなんだか空しさすら感じますね。しかし後世、この三国の英雄たちが消えることのない魅力を持っていたこと、そしてそれらが今もなお語り継がれていることは、私たちが証明しているといえるのではないでしょうか?
結局この後晋は分裂し中原はまた戦乱の時代を迎えることになります。そのお話もまた面白いものですので、興味を持った人はぜひ探してみてください。
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