父、孫堅。
兄、孫策。
彼らを失った孫権が孫家を背負う立場になったのは、19歳のことです。しかしそこから孫権は父と兄の遺した家臣たちと力を合わせて家を守り、苦難を乗り切り、何だかんだ三国の一つである呉と言う国の皇帝となりました。
晩年には二宮の変など、どでかい失態を起こしてしまったものの、そこに至るまでの孫権は偉業を成した、と言って良いでしょう。今回はそんな孫権のとりかへばやです。
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この記事の目次
早死にした父と兄の跡を継ぐ
さて、前述したように孫権は父と兄の後を継ぐ形で家を背負いました。そんな孫権が真っ先に直面した問題が赤壁の戦いだったのは記憶に新しい所。
向かってくる曹操の大軍、降伏か開戦かで揉める家臣、それをまとめて見事勝利をした孫権。それ以後も関羽との戦いを始め、夷陵の戦いや魏の三方面作戦でなど、数々の難所を乗り越えています。
生き残る、という条件が英雄にあるとするならば、孫権は間違いなく英雄の一人でしょう。
酒乱だった孫権
そんな孫権ですが、お酒での失敗、というか酒乱の気があったようです。
特にびっくりなのが酔い潰れた家臣に水をかけて起こして更に飲ませるという現代であれば問題になるような逸話ですが、この時に怒って帰ろうとした張昭に「皆で楽しんでるだけなのに!」と言って「昔、殷の紂王も同じように思っていましたよ」と言い返され、反省するというお話があります。
このように孫権は度々失敗をするのですが、それを誰かに指摘されると反省する、という逸話が多くある所を見ると、結構素直だったのかもしれませんね。
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やる時はやる人だった孫権
アルコールハラスメントな一面もある孫権ですが、赤壁の戦いを乗り越えたように、決める時は決める人物でした。その性格は「冷静沈着な性格」であり「的確に物事を判断できる」とまで評されていたと晋書に記されています。
因みにこれを言ったのはかの有名な諸葛亮の兄、諸葛瑾です。諸葛瑾がそういうんだから間違いないでしょう。少なくとも諸葛瑾から見た孫権はそうだった、というのは興味深いですね。
ということで、孫権のとりかへばやを始めて見ましょうか。
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case1:曹丕と取り替えたら魏将と和気あいあい
さて生前、曹操は「子を持つならば孫権みたいな子が良い」とまで言ったことがあります。という訳で曹丕とのとりかへばやはどうでしょう。
孫権は年上受けが良い(イメージ)なので、魏の諸将の皆さんも良い対応をしてくれるでしょうし、曹丕も冷淡な面はあっても気に入った人物には非常に甘く、意外と呉の濃い面子ともやり取りできるかもしれません。
問題は孫権が長生きをして、曹丕が短命なことですが……ここでも後継者問題は難しいですね、魏王様。
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case2:劉禅と取り替えたら陸遜が憤死しないかも
魏で曹丕なら、蜀は劉禅でしょう。劉禅は暗愚の代表の様に言われていますが、性根から暗愚という訳ではなく、周囲の影響を受けやすい人物、という評価もされています。つまり優秀で忠義に溢れる人物たちで取り囲んでしまえば、むしろ良い方向に向かうのではないでしょうか?
そう考えると陸遜からすると孫権よりも有難い存在となる可能性もあるかもないかもしれませんね(どっち?)。
孫権は孫権で晩年言うこと聞きませんからね。諸葛亮と相性が良くなくとも、黄皓が上手く相手するのは苦労するのではないでしょうか。意外と面白いとりかへばやですね。
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