姜維の北伐はたびたび蜀漢政権の国力を疲弊させ、滅亡へと追い込んだと言われています。費イも「丞相(諸葛亮)になし得なかったことが、どうして我々にできようか」と否定的な意見を述べて姜維を諌めています。
しかし、蜀漢政権において北伐は不可欠な国家事業であり、姜維の行動は間違ってはいません。ただ、連続した北伐は国力を疲弊させ、さらに自身の立場を悪くしたことは間違いないので、今回は姜維の何が失敗だったのかを考察をしていきたいと思います。
蜀漢と北伐の関係性
蜀漢は曹丕が帝位に就いた際に献帝が殺されたという噂が流れたことから、漢の正統な後継となるべくして誕生した国です。曹丕は献帝から禅譲という正規の手順を受けて建国しましたが、蜀漢はこれを認めず、自らを正当な漢王朝の後継としていました。
つまり魏を倒し、漢王朝を再興するという目的の元に成り立っています。本来、正規の手順で皇帝となった曹丕以外が帝位を称することは僭称という行為です。
僭称とは本来の身分以上の称号を名乗ることで、袁術の前例のように帝位を称することは反逆を意味します。本来であれば劉備は勝手に帝位を名乗った逆賊となるのですが、漢王朝再興という名分を掲げることでギリギリ(本来はアウト)成り立っていました。そのため、魏国と戦うことは国策であり、北伐をしなければ蜀漢の正当性はたちまち失われてしまう状況だったのです。
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軍事面に関する過ち
諸葛亮と姜維の北伐が失敗に終わった理由として兵力差や兵を率いる将軍の不足など様々な要因がありましたが、一番大きな壁は兵糧輸送だったと筆者は考えます。
益州は四方を山に囲まれる天然の砦でありながら、遠征をする際には兵糧輸送に難儀をするというデメリットもありました。実際、諸葛亮や姜維が何度も兵糧不足によって撤退したことからも分かります。
諸葛亮はこれを解決するために木牛、流馬という運搬器具を開発していますが、第四次、第五次北伐で投入しているにも関わらず、持久戦を強いられると兵糧切れを起こしているので、これだけでは問題は解消されませんでした。
そして、姜維もこの問題に対して有効な解決策を見いだせないまま北伐を続けています。
特に姜維の場合は隴左という魏国領内の奥深くに攻め込んでいたので、兵站の確保ができずに補給が困難な状態にありました。これが1つ目の問題といえるでしょう。
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【北伐の真実に迫る】
姜維の立ち振舞に関する過ち
諸葛亮の没後は北伐に反対する声が強くなっていました。それでも姜維は諦めず、自身が軍権を掌握すると連年のように北伐を繰り返します。
成果が出ているうちは問題にはなりませんが、敗北をすれば風当たりは強くなります。決定的だったのは256年の北伐で、姜維が段谷にて鄧艾に打ち破られ、多大な犠牲者を出したことです。
このことで朝廷では姜維を中央へ召還し、益州刺史に転任させようという動きが出ます。これは実行には至らなかったようですが、本来であれば姜維が自ら進んで行うべきでした。なぜなら益州刺史は地方の行政権などを持つ役割であり、諸葛亮政権から州刺史の属官には多くの益州土着の豪族が任命されていたからです。
一度内政重視に切り替えることで衰えた国力を回復させ、さらに益州の豪族とのコネクションを作ることもできます。さらに姜維は皇帝への上奏を司る尚書台のトップ録尚書事でもありました。名前だけで実務は担当していませんでしたが、このタイミングで実務にも手を出していれば北伐反対派を牽制し、豪族の後押しを受けて北伐を進めやすくすることもできたように思います。
少なくとも魏が侵攻してきた際に、黄皓に防衛に関する上奏を握り潰されることはなく、しっかり対応ができたでしょう。諸葛亮はこうした政治的な駆け引きに長けていたので、国内を分裂させることなく北伐に専念することができました。姜維の過ちは内側に目を向けず、軍事に変調しすぎたという立ち振舞が2つ目の過ちです。
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姜維の北伐に勝機はあったのか?
仮に朝廷内で反対が起きず、他の将軍たちも姜維に協力的だったと仮定して、蜀漢が魏を滅ぼすことはできたのでしょうか?
答えはノーです。
双方の国力には大きな開きがあり、諸葛亮の時代からすでに覆すことができないくらいの大きな差がありました。仮に雍州と涼州を手にしていたとしても、長安より東へは侵攻出来なかった可能性が高いです。
そもそも諸葛亮の北伐は関羽の死によって荊州を失った時点で破綻していました。唯一、姜維ができたことは国是である北伐を形だけでも継続しながら、いかに損害を少なく終わらせるかという程度です。
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三国志ライターTKのひとりごと
姜維は軍事の能力こそ抜き出ていたかもしれませんが、政治面を疎かにして自ら足場を無くしてしまいました。その背景には前線に立つ姜維の焦りを感じます。
それは農業に長けた鄧艾の出現によって、北部がどんどん攻略不可能な状態へと開拓されていったことが関係していると思います。鄧艾という存在がなければ姜維はもう少し冷静に政治面を考える余裕があったのかもしれません。
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