三国志演義の被害者、下手をすると関羽の被害者、諸葛亮の被害者……とも言われてしまう人物はままあります。その中で一人、劉備の養子にして、関羽を救援しなかったことから劉備の怒りをかい、最終的には諸葛亮の進言もあって処刑された劉封。
しかし実は彼は諸葛亮の陰謀によって抹殺されたのだ……!?真実はいつもいっぱい!今回は諸葛亮の陰謀と劉封のお話をしていきましょう。
荊州の優
さて三国志演義では既に後継者である劉禅が生まれているのに何故か劉備が養子に貰ってきた劉封。もうどうやってもここから不穏な空気しか漂いませんが、正史ではまだ劉禅が生まれる前、つまり劉備がまだ子供がいない時、荊州で養子にされた子です。武芸達者で気力に満ち溢れた劉封は、この後も若くして益州戦などの戦いに従軍し、軍功を重ねていきます。
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関羽との関係
しかし関羽の樊城攻めに援軍を断ったことが、彼の運命のターニングポイントとなりました。関羽は呉に捕縛されて処刑。劉封が援軍を断ったことは劉備の知る所となり、これを恨みに思っていたと言います。
そして同じ立場でとても仲が悪かった孟達が魏に寝返り、どの面下げてと言わんばかりに魏の先鋒として攻め寄せてきて「アンタも裏切った方が良いよ」と言ってきました。劉封はこれを拒否するも、敗北して成都に逃げ帰ることになります。
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羽扇はためかせ(イメージ)
さて劉備は前述したように既にお怒りモードでした。更に孟達まで魏に裏切らせたこともお怒りでした。ここで動いたのが諸葛亮です。
諸葛亮は劉封が豪勇であること、そしてそれは次の代の劉禅では制御することはできなくなるであろうということで、劉備にこの機会に劉封を除いておくべき、と進言します。結果、劉封は死を賜ることとなりました。
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「おのれ諸葛亮!」
三国志演義では逆にこのシーンが「劉備が激怒して処刑を決定するも、諸葛亮が宥める」シーンになっているため、もしかしたら後世ではこのシーンは「問題あり」と思われて改編されたのではないかと思います。結論を出したのは劉備とは言え、ここで諸葛亮が進言したことが劉封の命運を決めたと言って良いでしょう。
そう、つまりは諸葛亮が今後の蜀を牛耳るため、次代の雄である劉封を処刑したのです!ヒレツ!アッカン!……というのは六割くらい冗談ですが、諸葛亮にとって劉封は「今後の蜀のためには邪魔である」と判断したのは、そんなに間違ってはないと思うのです。
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劉備亡き後
劉備亡き後、諸葛亮はほぼ独裁と言っても良いほど権力を手中に収めています。とは言っても、それを私利私欲に使うとか、そういうことではありません。
あくまで蜀の天下のため、それが劉備への恩義であるため、結果的に独裁体制を築いてしまった、そうせざるを得ない状況下となったと言えるでしょう。諸葛亮に私利私欲は無かった、そこまでの信頼があったからこそできた体制、とも言えます。
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【北伐の真実に迫る】
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