三国志演義で有名な蜀の五虎将軍。魏でもその五虎将軍と同じく、同じ伝にまとめられている五名を「魏の五将軍」と呼ぶことがあります。
この五将軍、張遼・楽進・于禁・張コウ・徐晃と名前が羅列されているのを見ただけで、
筆者なら降伏を考えるターンに入ってしまいますが、他四名と比べるとちょっと張コウの存在って注目が足りないような?
……と思っているとその向こうに見えてきたのが法正の凄さ。ということで、今回は張コウを振り返りつつ、法正についても少しお話しましょうか。
この記事の目次
袁紹の配下だったが進言を無視され曹操に投降
皆さんご存知の通り、張郃はずっと曹操の股肱之臣という訳ではありません。嘗て張コウは袁紹の配下でした。袁紹の配下として活躍していたのですが、官渡の戦いが袁紹と張コウの運命の分かれ道。
ここで張コウは食料貯蔵庫の防衛を進言するも取り合って貰えず、曹操の本陣への攻略に回されます。しかも郭図らのミスを押し付けられる形になり、進退窮まった張コウは曹操に降伏することとなりました。
曹丕時代にも昇進を重ね征西将軍になる
しかしここから張コウの道は日の目を浴びることになります。張コウは数多くの戦いを生き延びるだけでなく、その先々で勝利、そして功を立てていきました。
220年には曹丕から左将軍に任命され、後に鄚侯に封じられることになります。後に征西車騎将軍に任命されるので、既にこの時には嘗ての袁紹配下としての張コウはなく、曹操の、魏の名将としての張コウがそこにあったのでしょう。
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司馬懿に進言を無視され北伐で戦死
しかし名将の道にも終わりはあります。231年、祁山の戦いこそが張コウにとってのそれでした。撤退した諸葛亮の追撃を行った張コウは、蜀軍から矢の猛攻を浴びて命を落とします。
この一件ですが、魏略によると司馬懿から追撃を命じられた張コウは軍法を挙げて追撃に反対するも、司馬懿は聞き入れることはなく、止むを得ず出撃しての戦死となったとあります。
この説を取り入れると、嘗て意見を聞き入れられず曹操の元に下った張コウが、再び意見を聞き入れられずに戦死するという何とも言い難い最期になります……うぅ。
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劉備が恐れていた名将、張郃
さてこの張コウ、劉備が魏の武将たちの中でもかなり恐れていた存在と言われています。
この劉備が警戒するようにと言ったのが「関羽を撃退した」楽進、そして「劉備が戦ったことがある」張コウなのですから、劉備の評価の高さも納得の所。特に定軍山では夏侯淵が討たれた後の魏軍の動揺を抑えるなど、そつのない働きっぷりも注目したい所。
慎重に慎重を重ね、丁寧に敵を追い詰めて刈り取っていく、そんなイメージが張コウにはありますね。
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定軍山で法正相手に苦戦する張郃
そんな定軍山の戦い、ちょっと思い出して頂きましょうか。この定軍山の戦いは、前述したように夏侯淵が戦死し、もっと言うと夏侯淵の息子たちも戦死する上に、おまけの最期は撤退と魏にとっても曹操にとっても大ダメージを受けた戦いです。
ここで張コウは出陣していますが、劉備陣営に苦戦し、夏侯淵はこの苦戦した張コウに兵士の半数を割いて救援するも戦死してしまいます。
この時、劉備があんなにも恐れた張コウが劉備陣営にこれほど苦汁を嘗めさせられているのです。で、この時誰がいたかと言うと……法正ですね。
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