魏の初代皇帝、曹丕。彼はまあ人間の好みが良く分かりにくいと言いますか、何だか不思議な交友関係を築いていることが良くあります。
そんな曹丕のお気に入りであったことで有名なのが、孟達。
三国志演義では関羽を見殺しにした人物として反感を買ってしまう人ですが、正史での人生もまた数奇なもの。今回はそんな孟達と曹丕の友情に付いて、ざっくりと切り込みを入れてみましょう。
劉備の恨みを買う孟達
そもそも孟達は法正とは友人同士で、蜀のトップだった劉璋を裏切って劉備を招き入れた人物の一人でもあります。そういう意味では法正にも劣らぬ劉備の恩人の一人なのですが、関羽と関わったのが運の付き。
関羽の援軍要請を断ったのは孟達や劉封の方も色々な理由があるのですが、これで関羽が死んでしまったからさあ大変。劉備から恨みを買うようになってしまいます。
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魏に降る孟達
更に言うとこの時点で法正は退場していますので、まあ孟達を庇ってくれるような人はいなかったのかもしれません。孟達は元々劉封と仲が悪かったこともあって魏に降ることになります。
この孟達の容姿や振る舞いがとても良い!ということで曹丕は大喜びして、孟達を厚遇しました。それがどれくらいかと言うと外出する時に一緒の車に乗ってしまうほど。
司馬懿らが孟達について何か言っても、曹丕は取り合わないほどに孟達を気に入っていたと言うのです。しかし、本当にそうだったのでしょうか?
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魏に降るちょっと前の孟達
魏に降る前、孟達は劉備に上表しました。
この上表の中で、孟達は劉備に別れを告げるのですが、その中で孟達はこう述べています。「楽毅たちと同じような目に合って増々彼らを痛ましく思うようになりました(中略)どうか殿下もご努力下さいますように」劉備は前述したように、関羽の一件で孟達を恨んでいました。
しかし孟達が魏に降り、その家族が罰せられるということはなかったようです。ここに「楽毅」が関係してきます。
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楽毅
楽毅は嘗て、燕の昭王を助け、斉を大いに打ち破りかけた稀代の英傑の一人です。しかし昭王が没し、恵王が後継となったことで窮地に陥りました。
恵王は若い頃から楽毅と仲が悪く、それを斉の将軍に利用され、離間の策によって楽毅は趙に亡命することになります。
恵王が楽毅を呼び戻そうとした時に上表したのが「報遺燕恵王書」であり、これは諸葛亮の出師の表と同じく名文として知られています。
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