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史実と演義の官渡の戦いは全く違う?詳細を比較してみた

2022年12月8日


 

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官渡の戦い 騎馬兵

 

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)における官渡(かんと)の戦いは、物語の前半部分における大きな節目です。本来は曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)が雌雄を決した大きな事件ですが、演義は劉備(りゅうび)たちを中心として描いているため、赤壁(せきへき)の戦いと同様に創作された部分も少なくありません。

 

五関六将破りを行う関羽

 

例えば、関羽千里行(かんうせんりこう)のようなドラマティックな話がそれに当たります。そこで今回は史実と演義の官渡の戦いで、異なる内容を取り上げていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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動員された兵力

曹操VS袁紹

 

演義における官渡の戦いは、袁紹軍70万に対して曹操軍7万という圧倒的な兵力差で始まります。これに対して史実では実際の兵力は明らかになっていません。袁紹伝には袁紹軍の兵力は歩兵が10万、騎兵が1万の合計11万。

 

魏志(魏書)_書類

 

曹操軍は武帝紀(ぶていき)の記述では1万に満たない程度、荀彧伝(じゅんいくでん)でも袁紹軍の10分の1の兵力で善戦していると言われていることから、1万程度だったと考えられています。

 

青州兵(兵士)

 

 

しかし、これでは兵力差がありすぎますし、挙兵から官渡の戦いまでで負け星の少ない曹操軍の兵力が少なすぎです。そのため、実際は3、4万程度だったのではないかと考えられています。

 

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顔良、文醜の最期

顔良を討ち取る関羽
演義では袁紹軍きっての猛将と言われていた顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)関羽(かんう)が討ち取っています。そのお膳立てをするように徐晃(じょこう)ら曹操軍の将が顔良と文醜に勝負を挑み、敗北を喫しています。

 

 

顔良と関羽

 

 

史実でも顔良は関羽が討ち取っていますが、文醜に関しては曹操軍によって討たれたことしか分かっていません。また、演義には描かれていませんが、顔良を討つ際に荀攸の献策によって袁紹軍に陽動をしかけ、顔良の部隊を孤立させています。

 

 

文醜

 

 

文醜は関羽が討ったかどうかという点が違うだけで、輜重部隊(しちょうぶたい)を囮として使い、スキが出来たところで攻め込むという作戦は同じです。

 

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関羽

 

 

劉辟、龔都の活躍

張飛と劉備

 

演義において劉備、関羽、張飛(ちょうひ)らが再開する際に大きく関係する人物が劉辟(りゅうへき)劉都(きょうと)です。二人は汝南(じょなん)を拠点とする黄巾賊(こうきんぞく)で、曹操軍の背後を脅かす存在でした。そのため、曹操は曹洪(そうこう)を派遣して撃退を図りますが失敗に終わります。

 

 

はじめてのプロ野球 関羽

 

 

そのことを知った関羽は自ら名乗りを上げて討伐へと向かいます。しかし、関羽は汝南で孫乾(そんけん)と再会し、劉備が袁紹のもとにいることを知ります。また、劉辟と龔都は汝南を関羽に開け渡すために戦った振りをしてわざと敗走。

 

劉備とはぐれて心配する関羽

 

任務を終えて帰還した関羽は劉備の動向を探りながら曹操のもとを去ります。関羽千里行を経て汝南へ到着し、そこで劉備や張飛と再会を果たしました。史実では官渡で曹操と袁紹が対峙した際、劉辟は汝南で反乱を起こし袁紹に協力します。劉備は袁紹の命を受けて援軍を率いて劉辟と合流。

 

曹仁

 

許都(きょと)の南部にある㶏彊(いんきょう)の諸県を荒らしていますが、曹仁(そうじん)によって撃退されます。その後、袁紹は倉亭(そうてい)の戦いで敗れる前に再び劉備を汝南へ派遣。劉備は近隣の諸県へ攻め込み曹操の背後を撹乱します。これに賊の龔都が呼応。曹操は鎮圧のために蔡揚(さいよう)を派遣しますが、逆に討ち取られてしまいます。

 

曹操から逃げ続ける劉備

 

 

袁家との戦いに一区切りがついた曹操は自ら劉備を攻撃。これには敵わず劉備は劉表(りゅうひょう)を頼って荊州(けいしゅう)へ逃亡します。龔都も同様に曹操によって潰走させられ、その後の行方はわかりません。

 

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劉備の離反

三国志演義_書類

 

劉備が袁紹のもとを離れる時期、そして理由(経緯)も演義と史実で異なります。演義では前述したように関羽が汝南へ劉辟らを討つために向かったことがきっかけとなり、そこから孫乾を介して関羽と劉備が連絡を取り合っています。劉備が袁紹のもとを離れた理由は、劉表に後方支援を依頼するためで、これは白馬(はくば)の戦いと官渡の戦いの間の出来事です。

 

三国志の主人公の劉備

 

史実の劉備は、官渡の戦いのあとに袁紹の命を受けて汝南に渡り、曹操の背後を撹乱。しかし、その間に袁紹が敗北し、劉備自身も曹操に追われたことで荊州へと逃げています。そのため、袁紹のもとを離れようという意思があったのかも定かではありません。

 

関羽千里行

 

 

余談ですが、史実では関羽が劉備に合流したタイミング、下邳の戦いのあと張飛が劉備とともに袁紹のもとへ逃げていたのか、別行動をしていたのかなどもも不明です。趙雲は劉備が袁紹のもとにいた際に再会し、そのまま荊州まで同行しています。

 

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三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

演義で烏巣(うそう)を襲撃したメンバーの中には夏侯惇(かこうとん)夏侯淵(かこうえん)、曹仁など曹操の親族が含まれていますが、史実ではこうした有能な親族たちは曹操の背後を固めていました。官渡の前線にいて袁紹軍と対峙していたのは于禁(うきん)楽進(がくしん)、徐晃などです。

 

魏王に就任する曹操

 

 

考え方によっては、曹操は袁紹との直接対決はそれほど警戒しておらず、それよりも劉表や孫策(そんさく)などが背後から許都を着くことを警戒していたとも言えるでしょう。

 

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TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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