三国志演義における官渡の戦いは、物語の前半部分における大きな節目です。本来は曹操と袁紹が雌雄を決した大きな事件ですが、演義は劉備たちを中心として描いているため、赤壁の戦いと同様に創作された部分も少なくありません。
例えば、関羽千里行のようなドラマティックな話がそれに当たります。そこで今回は史実と演義の官渡の戦いで、異なる内容を取り上げていきたいと思います。
動員された兵力
演義における官渡の戦いは、袁紹軍70万に対して曹操軍7万という圧倒的な兵力差で始まります。これに対して史実では実際の兵力は明らかになっていません。袁紹伝には袁紹軍の兵力は歩兵が10万、騎兵が1万の合計11万。
曹操軍は武帝紀の記述では1万に満たない程度、荀彧伝でも袁紹軍の10分の1の兵力で善戦していると言われていることから、1万程度だったと考えられています。
しかし、これでは兵力差がありすぎますし、挙兵から官渡の戦いまでで負け星の少ない曹操軍の兵力が少なすぎです。そのため、実際は3、4万程度だったのではないかと考えられています。
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顔良、文醜の最期
演義では袁紹軍きっての猛将と言われていた顔良と文醜を関羽が討ち取っています。そのお膳立てをするように徐晃ら曹操軍の将が顔良と文醜に勝負を挑み、敗北を喫しています。
史実でも顔良は関羽が討ち取っていますが、文醜に関しては曹操軍によって討たれたことしか分かっていません。また、演義には描かれていませんが、顔良を討つ際に荀攸の献策によって袁紹軍に陽動をしかけ、顔良の部隊を孤立させています。
文醜は関羽が討ったかどうかという点が違うだけで、輜重部隊を囮として使い、スキが出来たところで攻め込むという作戦は同じです。
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劉辟、龔都の活躍
演義において劉備、関羽、張飛らが再開する際に大きく関係する人物が劉辟と劉都です。二人は汝南を拠点とする黄巾賊で、曹操軍の背後を脅かす存在でした。そのため、曹操は曹洪を派遣して撃退を図りますが失敗に終わります。
そのことを知った関羽は自ら名乗りを上げて討伐へと向かいます。しかし、関羽は汝南で孫乾と再会し、劉備が袁紹のもとにいることを知ります。また、劉辟と龔都は汝南を関羽に開け渡すために戦った振りをしてわざと敗走。
任務を終えて帰還した関羽は劉備の動向を探りながら曹操のもとを去ります。関羽千里行を経て汝南へ到着し、そこで劉備や張飛と再会を果たしました。史実では官渡で曹操と袁紹が対峙した際、劉辟は汝南で反乱を起こし袁紹に協力します。劉備は袁紹の命を受けて援軍を率いて劉辟と合流。
許都の南部にある㶏彊の諸県を荒らしていますが、曹仁によって撃退されます。その後、袁紹は倉亭の戦いで敗れる前に再び劉備を汝南へ派遣。劉備は近隣の諸県へ攻め込み曹操の背後を撹乱します。これに賊の龔都が呼応。曹操は鎮圧のために蔡揚を派遣しますが、逆に討ち取られてしまいます。
袁家との戦いに一区切りがついた曹操は自ら劉備を攻撃。これには敵わず劉備は劉表を頼って荊州へ逃亡します。龔都も同様に曹操によって潰走させられ、その後の行方はわかりません。
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劉備の離反
劉備が袁紹のもとを離れる時期、そして理由(経緯)も演義と史実で異なります。演義では前述したように関羽が汝南へ劉辟らを討つために向かったことがきっかけとなり、そこから孫乾を介して関羽と劉備が連絡を取り合っています。劉備が袁紹のもとを離れた理由は、劉表に後方支援を依頼するためで、これは白馬の戦いと官渡の戦いの間の出来事です。
史実の劉備は、官渡の戦いのあとに袁紹の命を受けて汝南に渡り、曹操の背後を撹乱。しかし、その間に袁紹が敗北し、劉備自身も曹操に追われたことで荊州へと逃げています。そのため、袁紹のもとを離れようという意思があったのかも定かではありません。
余談ですが、史実では関羽が劉備に合流したタイミング、下邳の戦いのあと張飛が劉備とともに袁紹のもとへ逃げていたのか、別行動をしていたのかなどもも不明です。趙雲は劉備が袁紹のもとにいた際に再会し、そのまま荊州まで同行しています。
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三国志ライターTKのひとりごと
演義で烏巣を襲撃したメンバーの中には夏侯惇、夏侯淵、曹仁など曹操の親族が含まれていますが、史実ではこうした有能な親族たちは曹操の背後を固めていました。官渡の前線にいて袁紹軍と対峙していたのは于禁、楽進、徐晃などです。
考え方によっては、曹操は袁紹との直接対決はそれほど警戒しておらず、それよりも劉表や孫策などが背後から許都を着くことを警戒していたとも言えるでしょう。
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