武力100の三国志最強武将呂布奉先、愛馬、赤兎馬にまたがった姿はまさに人中の鬼神でかっこいいとファンも多く存在します。今でもゲームなどで人気の天地を喰らうの呂布はなんと金髪碧眼の青年として描かれブラコンの妹、貂蝉に振り回されますが持前の武力は健在で人気が高いです。
しかし、一方で呂布は無節操で裏切り癖があり、三国志ファンからクズ呼ばわりされたり将来の見通しも立てられない脳筋武将として後世の歴史家からも、腕力だけのただのバカと酷評されました。ですが、それらは一面的な見方であって真実ではありません。日本でゴキブリ触覚野郎と罵られ恐れられる呂布は、中国では聡明な色男と評されるように単純な腕力バカではないのです。
この記事の目次
呂布の凄いエピソード1 人物像は喧嘩も出来るインテリ詐欺師
史実の呂布は、土壇場の口八丁で多くの群雄をいいくるめて来た狡猾な男です。よく考えて見て下さい、度々主を変えて来たという事は、それだけ口が上手く欠点を覆い隠し、人を丸め込める知恵があるという事です。
例えば呂布は、李傕と郭汜によって長安を追われた後に袁術の世話になりました。この時には、俺が董卓を殺して袁家の仇討ちをしたと、のたまっています。実際、袁紹が反董卓連合軍を組織した時に、董卓は報復で洛陽に残っていた袁家の人間を皆殺しにしてしまいました。
袁術としては、自分が仇を討たないといけない所を呂布に代行してもらったので呂布を無視出来なくなり一時は客として対応したのです。
また、長安から逃げ出した後、李傕や郭汜に懸賞金をかけられた呂布は、同じ并州人で丁原の下で同僚だった張楊の保護を受けます。すでに賞金首になっていた呂布を張楊は殺して、李傕から恩賞を受けようとしますが呂布は、奸知を巡らしました。
「あんたと俺は同郷である上に、同じく丁原を主と仰いだ同僚兄弟同然だ俺を殺したら、あんたは兄弟殺しとして天下の評判を落とすだろうそれを回避するには、俺を生かしたまま李傕に送りつける事だ出来るだけもったいぶって渡してやれば、恩賞や官位も厚くなろう」
張楊はもっともだと思い、呂布を手厚く保護してやり、なかなか李傕に呂布を引き渡しませんでした。李傕は張楊が呂布と結んだのではないかと不安になり、呂布を頴川太守に封じるなど懐柔を図っています。こうして呂布は隙をみて余裕で張楊の下を逃げ出したのです、土壇場の知恵では、曹操や劉備に劣るものではありません。
※後漢書が採用した英雄記の記述
北方謙三三国志では、たった一人の女の為に全てを犠牲に出来るという純粋で粗暴な男ですが、実際の呂布は状況次第で誰でも騙す弁舌を持つインテリ詐欺師な知的で喧嘩も強い男なのです。
呂布の凄いエピソード2 横山光輝も北方謙三も触れない統治の才
呂布は、西暦196年徐州牧を陶謙から譲られた劉備から徐州を奪った事が知られていますこの呂布の徐州統治期間は、彼が199年に死ぬまで足掛け4年に及びました。
僅か4年のように思うかも知れませんが、曹操が荒らし黄巾賊の被害もあった徐州で大規模な反乱もなく統治できたのは、呂布が参謀の陳宮や部将の高順を上手く使い、徐州の有力豪族も取り込んでいたからでしょう。ただの腕力バカなら、張飛の最期のように泥酔して寝ている時に愛想を尽かした部下に寝首をかかれてオシマイになっていると思います。
この辺りは、横山光輝三国志や蒼天航路、北方謙三三国志等でも等閑視されますが事実は陳宮辺りが調整するにしてもかなり凄いんじゃないですかね?
呂布の凄いエピソード3 いざとなると潔い男気のある行動
呂布は、曹操に危険視され下邳城を水攻めされます。これにより呂布軍は疲弊し士気も最低に落ち込んだ上に、呂布がささいな事で部下の侯成を叱責した事で、愛想を尽かした侯成が魏続、宋憲と組んで陳宮を捕縛して城門を開いて曹操に降伏しました。
縁戚の魏続が裏切った事で気力が切れた呂布は部下に対して俺を縄で縛って曹操に突き出せと命じます。しかし挙兵当時から呂布に付き従ったきた兵士達は、呂布を縛る事が出来ず呂布はやむなく歩いて城門を出て投降したと言われています。どこまでも見苦しく抵抗せず、終わったと思ったら潔く降伏する呂布はボスとしての責任の取り方を弁えていると言えませんか?
呂布の凄いエピソード4 命乞いじゃなく自分を売り込む生への執念
呂布は曹操に捕縛され斬首されたと思っている人が多いでしょうが違います。実際は呂布は縛り首にされた後で首を斬られているのです。どうして、縛り首になったかというと、呂布は縄で縛られても大暴れして観念せず、誰も処刑台に呂布を押さえつけられないので、辟易した曹操が呂布の首に縄を掛ける事を命じ、長い時間をかけて左右から引っ張り絞殺されたのでした。
よく呂布は命乞いをしたと誤解されますが、呂布のそれは命乞いではありません。「俺と組んで天下を取らないか?」という敗者とも思えない逆スカウトです。上手くすれば、今度は曹操と組んで生き残れると思ったのでしょう。最後まで生きる事を諦めない、jojo第二部の柱の男エシディシのような生命への執着心ですね。
呂布の凄いエピソード5 後世の評価が高い
呂布は陳寿や同時代の陳登によって勇だけがあり長期的な展望がない軽はずみな男と酷評されます。蒼天航路にしても横山光輝三国志にしても、映画などでも武力優先であり、特に蒼天航路ではろくに口も聞けず感情のままに即行動の暴力的な人物として描かれます。そのせいもあり、呂布は概ね歴史家に酷評されているイメージですが、それは、一面的な見方であり千数百年、呂布の評価が同じであったわけではありません。
例えば、北宋時代の軍事学者何去非は、自身が用兵の第一人者と称した曹操に対する呂布の戦いぶりを転戦するに無敵であったと褒めたたえています。明の時代の張溥は、呂布を後漢末の第一の将軍であるとし、文人の第一人者である孔融と合わせて一流の人物とし、同じく周公旦に匹敵すると評価した曹操が、この二人を殺したのは惜しんで余りあると記述します。彼らはいずれも、儒教が根付いた後世の人物でありながら、儒教的には嫌われる裏切者の呂布を用兵家、将軍として一級であったと評価しているのです。
呂布の凄いエピソード6 自分を裏切った人間を許す度量
匈奴のような異民族の多い土地に生まれ、非常に裏切りやすい呂布ですが、自分がそういう人間である為か他人の裏切りにもかなり寛容という度量が広いというか、のんびりしている所がありました。後漢書、王允伝によると、呂布が董卓を誅殺して王允と共同政権を樹立した時呂布はしきりに涼州人を赦すように王允に提案しています。その理由として、呂布は
「涼州人はただ董卓が主であるから従っただけであって深い考えなどないもし、罪は大きいが赦すなどと言えば、いつか気を許した時に過去の罪で殺されまいかそう考えて涼州人は疑心暗鬼になり、懐かせる事は出来ないだろう赦すなら黙ってゆるすべきで大赦などと恩着せがましい事を言うのは道とは呼べない」と言っています。※後漢書王允伝
しかし、王允は内心、呂布を無学粗暴の徒と軽んじていたので、この意見を採用しなかったのだそうです。歴史書により異論はあるようですが、これが真実ならば呂布はイザコザを起こさずに人を纏める力量では王允よりも遥かに優れていたと言えるでしょう。実際に呂布の勧める方向で行けば、李傕も郭汜もやけっぱちで長安に攻め上る動機もなく三国志は、違った展開を見せていたと考えられます。
※魏志呂布伝では、呂布は涼州人を恐れ憎んでいて、涼州人も呂布を憎悪していたとあり記述は正反対になっています。
その後、兗州争奪戦で曹操に敗れた呂布が徐州に落ちのびて劉備を頼り、劉備が袁術と戦っている途中に謀反を起こし下邳を乗っ取った時にも、そのまま袁術が劉備を攻めるのに任せておけば、手を汚さずに劉備を滅ぼせたのに敢えてそうしないで仲裁に乗り出して、袁術軍の紀霊を退却させています。
普通なら、州を奪った負目から劉備の復讐を恐れて殺す方に意識が向かいそうですが、呂布は劉備の実力を認め、生かしておいて袁術に対する楯にしようと考えたわけです。ただ、これはさすがに不用心でした。結局劉備は、救われた恩義など感じず(当たり前ですが)こっそりと兵を集めて呂布を急襲しようとしてバレてしまい撃破されて曹操を頼って逃げています。
また英雄記の記述によれば、徐州を手に入れたばかりの頃に郝萌が反乱を起こしますがこの黒幕は袁術と組んだ陳宮であるとされています。しかし、呂布は陳宮の罪を問わずにそのまま側に置き続けました。あまりにも赦し方に節操がなく基準がザルすぎて天然なのか度量なのか不明ですが、少なくとも、狭量で小心な人物で無かった事は事実でしょう。
呂布の凄いエピソード7 手紙で敵を降伏させた事がある
脳味噌筋肉だの、粗暴なゴリラだの散々な言われようで文字も読めなさそうな呂布。三国志演義等では、虎牢関で張飛や関羽、劉備と戦い多くの戦績を積んでいますが、知略で城を落とすなど出来そうにもありません。ですが、そんな呂布が手紙一枚で敵を降伏させた逸話があります。それは、瑯邪相の蕭建という男で、呂布の本拠地の徐州とは目と鼻の先ながら莒という城に立て籠もり容易に服しません。そこで、呂布はこんな手紙を送りました。
そもそも天下が兵を挙げたのは不義の暴君、董卓を討つためであった。私が董卓を誅殺して関東に下ったのは関東の諸侯の兵を集めて洛陽に帝を迎え漢の天下を回復する為であったが関東の諸侯は返って激しく争うばかりで真に漢の行く末を思っている人間はいないようだ。
元々、私は并州の出身で、徐州は故郷から五千里も離れた場所でしかない。よって、君を滅ぼして領土を拡張しようというつもりは毛頭ないのだ。むしろ、近所なのだから互いに通好して友誼を結びたい。
それにも関わらず、君が敢えて野心を捨てないのであれば、郡という郡は銘々に皇帝を擁立し、県という県は王を立ててこのカオスは果てしなく続くであろう。昔、英雄、楽毅は斉を攻めて、瞬く間に七十余の城を落として、残る城は即墨と莒、この二城だけに過ぎなかった。それが落ちなかったのは斉に田単という英雄がいたからだ。私は楽毅には及ばないが、君もまた田単には及びはしないだろう?この手紙を受け取ったら重臣を集めよく善後策を協議してくれ
これは、正史三国志魏志、呂布伝に引く英雄記の記録ですが、漢の天下を回復させるのが主で、後は私闘に過ぎないという主張や、火牛の計で有名な莒と即墨の故事を引くなど、脳味噌きんにくんには書けない一定の教養を感じさせる内容になっています。さらに、この手紙を受け取った蕭建は呂布を信用し主簿を派遣して、良馬五頭を贈り、呂布の支配下にはいる事を承知したのです。
項羽のような武力一辺倒の人物像とは異なる硬軟織り交ぜた戦い方が呂布には出来るのです。
呂布の凄いエピソード8 底知れない度胸
呂布は自分の武芸に絶対の自信を持っており、それが底知れない度胸に繋がりました。袁術に攻められ窮地に陥った劉備を救う為に歩兵千に騎兵二百で三万の兵力を持つ紀霊の軍に割って入ったのは、その度胸を示す逸話です。
また、後漢書によると、その後、泰山の臧霸が呂布の同盟者の蕭建の城を落として呂布と関係が険悪化してしまった時「財貨を送るから和睦してくれ」と打診してきた臧霸に対し呂布はこちらも誠意を見せるとして、自ら敵城に出向いて財貨を受け取ろうとしました。
これには高順が万が一、交渉が破れた事を恐れて反対しますが呂布は「俺が直接取りに行くのは臧霸を信用している証だ」と反論して聴きません。しかし、呂布の誠意は臧霸には伝わらず、かえって何かあるかも知れないと計略を警戒し、とうとう城門を開きませんでした。
このように呂布は底知れない度胸の持ち主であり、姑息な卑怯さとは無縁の人物と言えるでしょう。呂布には娘がいたそうですが、名前は伝わっておらず、飽くまでゲーム上で呂玲綺とされていますが、父に劣らぬ武芸者で勇気の高い武将です。これも、呂布の豪胆さを元に練られたと言えるでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがでしょうか?武力以外にも、呂布奉先には沢山の魅力があると思いませんか?少なくとも、ただの脳筋武将ではない事が分かっていただけたと思います。
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