秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、中国史では、学校で最初に習う人物名でしょう。また、その業績についてはうろ覚えでも、不老不死の幻想に取りつかれて日本を含め各地の島に不老不死薬探検隊を派遣したり、デカイ宮殿や広大な墓を造るのに人民を酷使し苦しめ、その為に大反乱が起きて始皇帝の死後、国が滅んだのは、よく知られた事だと思います。
しかし、始皇帝というのは、そんな死にたくない願望で不老不死を求めたり贅沢の限りを尽くして人民を苦しめた「だけ」の人ではありません。始皇帝がいなければ、中国はおろか、今の日本さえ存在しないかも知れない。それほどまでに偉大で過激で、桁外れの男なのです。
この記事の目次
始皇帝の業績をザックリ
始皇帝の業績を簡単に紹介しましょう。彼は、2200年前の春秋戦国時代の末に中国の西の果てにあった強国秦に生まれ13歳で秦王政として即位しました。彼は、非常に猜疑心が強く利己的な性格でしたが、役に立つと思えば、貧民であっても頭を下げて配下に迎えるという柔軟性があり、身分にも地位にも国籍にも捉われず優秀な人材を発掘しました。
即位して十六年後、政は29歳の時、国力の充実を踏まえて、中華統一の大事業に乗り出し、韓(かん)を手始めに趙(ちょう)燕(えん)、魏(ぎ)、楚(そ)、斉(せい)とライバルの六国を僅か10年で滅ぼし紀元前221年天下を統一します。こうして紀元前770年から分裂して争っていた中国は550年ぶりに一つにまとめられます。
政は、各地に功臣を派遣して王に封じていた従来の統治法を廃棄中国を三十六の郡に分けて王の代わりに官(役人)を派遣して、これを数年で人事異動させる事で官を通じて直接、皇帝が人民を支配する中央集権制を確立します。
さらに、七国で異なっていた漢字を統一し、車の車輪の幅を定め、秤や桝などの基準を一定にし、通貨も統一、道路網を整備し運河を開削します。これらの事業は、文化も言語も習慣も異なる大陸の人々を纏め、中国は1つという概念を生み出すに至ります。
始皇帝がいなければ、中国は欧州のように幾つかの国に分かれて、存続していただろうとも言われ、現在の中国人は始皇帝のお陰で誕生したとも言えるのです。また、始皇帝の時代に整備された法体制は漢の時代にも引き継がれ律令(りつりょう)として、奈良時代に日本に導入され官僚機構の元になります。日本が統一国家になるのに律令が果たした役割は大きいのです。
始皇帝が生まれた春秋戦国時代はどんな時代?
始皇帝が生まれた時代は、春秋戦国時代と呼ばれる時代です。正確には、春秋時代と戦国時代に区分されていました。春秋時代とは、紀元前770年に、それまで中国を支配していた周王朝が異民族の侵略によって都を滅ぼされ時を起点とします。
その後、周は内輪もめで東西に分裂し、これを見ていた諸侯は周を侮り周王の命令を聞かなくなり、銘々で領土拡大に走り出します。これにより、各地で諸侯の淘汰が発生し、国々は全体として大きくなり交流が促進された事で、元々、氏族が固まって住んでいた都市にも各地から人々が移り住み雑居状態が生じます。
結果、周の初めには700余りあった国が春秋の中頃までに20国余りまで統合されました。かくて、都市人口の増大と血縁集団としての貴族の地位の低下が発生血縁による身分制が崩れ、能力主義が台頭します。人口が増えた事で戦争も大規模になり、それまで少数の貴族が戦車(馬が引く二輪車)で行っていた戦争は市民を動員した歩兵戦へシフトしました。こうして、戦争のスタイルが集団戦法になった頃に春秋時代が終わります。
戦国時代は、紀元前403年に開始されたとされます。その年、超大国だった晋の領土を趙氏・魏氏・韓氏という有力貴族が分割したのを、周王朝が認めて諸侯に封じました。これは、主君を倒して家臣が諸侯になるという下克上を周が認めた事で春秋時代よりも、より実力主義になった戦国時代を象徴する出来事です。
戦争は絶え間ない時代でしたが、能力のある人にとっては出身に関係なく王にも侯にもなれる時代であり、社会は活気に溢れていましたし、自由な雰囲気は、諸子百家と言われる数多くの思想も生み出しました。この時代に、秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓という戦国の七雄が出揃い戦国時代の初期は、魏が有力になり、次に斉がそれに代わり、秦が公孫軮(こうそんおう)の変法で強大になったのは戦国の中期でした。
さらに、燕と趙が勢力を伸ばしますが、趙は秦との長平の戦いで兵員40万を失う大敗を喫して勢力を後退させ、強国だった斉も燕により蹂躙され、かつての国力を失っていきます。こうして、秦の優位で歴史は進み、始皇帝の誕生へとつながるのです。
秦の始皇帝の名前
秦の始皇帝という特徴的な名前は、始皇帝が自分で名付けました。それ以前の名前は、政(せい)で、秦王政と呼ばれていました。当時、地上で最高の存在は、王だったのですが、周王朝の力が衰えると有力な諸侯は、それぞれ王と名乗るようになり有難みが薄れていました。そこで、始皇帝は、新しい天下の支配者の称号を考えるように命じます。
これに応えて重臣達は、始皇帝の大事業は、古代の五帝を超越したとして三皇のうち最上位である「秦皇」の称号を使うよう提案します。ところが、始皇帝は、それを気に入りませんでした。
自分の偉業は、太古の三皇五帝よりずっと尊いのだから秦皇でも不足だそれを超える新たな存在であるという考えから、三皇と五帝を合わせた「皇帝」と言う新しい称号を造語し、自分に対する呼び名として使ったのです。まさかの、オマイラが考えているより、俺はずっと偉いアピールで自分で皇帝とつけちゃったのですね。この辺りにも、傲岸不遜で意識高い系の始皇帝の性格が窺がえます。
始皇帝(幼い頃の名前:政)は趙で人質になっていた
そんな意識高い系の始皇帝なので、さぞかしエリートの生まれで、幼い頃から、苦労知らずで育ったボンボンだろうと思いますが、まるで逆で、始皇帝は誕生した時にすでに人質でした。
始皇帝こと政は、紀元前259年、秦の公子(王族)だった父の子楚(しそ)と、趙国の舞姫だった趙姫(ちょうひ)との間に生まれます。子楚は公子と言っても、大した後ろ盾もなく、当時の秦王に100名以上はいたであろう、子孫の一人に過ぎません。
生きようが死のうが、どうという事はない立場だった子楚は国境を接し度々秦と激突していた趙の都、邯鄲(かんたん)に捨て石として派遣され、貧しい暮らしをしていたのですが、たまたま邯鄲を訪れていた大商人の呂不韋(りょふい)に見いだされて、最終的には、秦王の後継者だった安国君の後継者に立てられます。
しかし、政が3歳の頃、秦と趙は戦争状態になります。当時の人質は戦争になるとみせしめに殺される事が多くありました。子楚は呂不韋の手引きで趙から秦に逃げる事が出来ましたが、政と母の趙姫までは、手が回らず、知人に頼んで潜伏生活を余儀なくされる事になります。
もし、発見されれば、憎っくき秦の人間として惨殺されるに違いなく政は、3歳にして相手の顔色を見て恐怖と猜疑心の中で暮らす術を覚えます。潜伏生活は、父の子楚が安国君が即位して皇太子になるまで7年間続き10歳になった政は秦に帰還しますが、その頃までには、暗く人間への猜疑心に満ちた政の性格が完成していました。
始皇帝は秦に戻るが呂不韋の傀儡
子楚の父の安国君は、秦の孝文王として即位しますが1年で死去します。これにより後継者の子楚は即位して莊襄王として即位し、政は皇太子になります。ところが、莊襄王も即位から、3年で病死し、政はまさかの少年王として、13歳で即位する事になりました。しかし、王になっても政は籠の鳥に過ぎませんでした。秦の政治は、子楚を王にするのに多大な貢献をしていた呂不韋が宰相として牛耳り、政には、何事も出来ない状態だったのです。
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母・趙姫は嫪毐と通じて出産
宰相として秦を牛耳る呂不韋でしたが、彼にもアキレス腱がありました。かつて子楚に与え、今や皇太后になった趙姫の事です。実は、太后は子楚に与える前には、呂不韋の愛人でした。おまけに、太后は元々、性欲の強い女性で30代後半の女盛りでもあり、未亡人となってからは、度々、呂不韋を呼び出し、かつてのように密通を繰り返す関係になります。
もちろん、先王の皇后と密通していると知れれば呂不韋は破滅です。彼は、何度も太后との不倫を清算しようとしますが、太后は、呂不韋を手放そうとしませんでした。そこで、呂不韋は、身代わりとして自分の食客から嫪毐(ろうあい)という巨根の男を探し出し、大勢を呼び集めて、大宴会を開催すると、嫪毐の巨根に車の車輪を嵌めて回しながら、卑猥な歌を歌わせるという宴会芸を披露させます。
アキラ100%どころではなりませんね、めちゃ露骨です。
この宴会の噂を聞いた太后から、内々に嫪毐が欲しいという話が届き呂不韋は、ここぞとばかりに嫪毐を宦官に成り済まさせて後宮へと送り込みました。
思惑通りに、二人は大ハッスル、二人の子供を儲けてしまいます。しかし、嫪毐は呂不韋が思った以上に、強かな野心家でした。長信侯になった彼は、太后と結託し秦王政を廃して、自分たちの息子を王にしようとクーデターを計画しました。ところが、それは密告により、露見していて反乱はあっさり鎮圧。同時に、呂不韋が嫪毐を後宮に送り込んだ事や、それ以前は、呂不韋が太后の不義密通の相手であった事も知られました。
こうして、呂不韋は宰相の地位と領地を失い、さらに呂不韋の人気を恐れる政により、蜀の地に流刑とされます。次第に、地位を削られ、将来を悲観した呂不韋は毒を飲んで死去しました。このようにして、秦王政は、24歳にして、初めて自らの意思で政治を行える立場になるのです。
燕の王太子・丹に刺客、荊軻を送られ暗殺未遂
24歳で親政を開始した政は、それまでに蓄積された秦の国力と、身分や出身地に関係なく、能力主義で集めた人材により紀元前230年から韓、そして趙をたて続けに滅ぼしました。それまで、燕は趙の背後にあったので、秦と国境を接していませんでしたが趙の滅亡により、秦の強圧を受けるようになりました。
元々、燕の公子の丹は、秦王政に個人的な恨みがあり、それを晴らそうと暗殺者、荊軻(けいか)を派遣して政を暗殺しようと計画します。
ところが、荊軻は後、一歩のところで暗殺に失敗、激怒した政は、燕に大軍を送り込んで攻撃、紀元前226年には、燕の首都の薊(けい)を陥落させます。政の恨みは凄まじく、荊軻の一族を探し出しては一人残らず殺し、それでも飽き足らず一族が暮らしていた町の住民まで皆殺しにしました。政は趙の都である邯鄲を落とした時も、かつて自分を虐待した町の人々をすべて、殺戮しています。
このように、政は一度受けた恨みは決して忘れず赦しもしませんでした。これも、人間は信用できない、必ず裏切るという政の幼少期の暗い体験がもたらした彼の性格だったのです。
秦が滅びた理由
秦王政の功績については、前述しましたので、ここでは秦が滅んだ理由を書きます。秦が、大土木工事を行い国力をすり減らした事は滅亡の要因ですが、それは決定的な要因ではありません。
秦に限らず、中国の王朝は建国と同時に国内整備を行い、多かれ少なかれ、大土木工事を起こしていくものだからです。事実として、最近の研究では、秦の時代の万里の長城の建設や、驪山(りざん)陵の建設には、綿密な動員計画が立てられており、効率的な工事が行われていた事が明らかになっています。
また、秦の時代ではありませんが、それより100年位後の前漢の時代に罪を犯して強制労働に服した人々は、事故や病気で死亡した時に、それぞれ個人墓に埋葬され、表面の墓標にはその人の名前と罪と携わっていた仕事が漢字で記されていました。
人権と言う言葉もない2100年前、人権がもっとも蹂躙されるであろう罪人でさえ、ちゃんと共同墓地に個別に葬られているのです。
漢と秦では違うと思うかも知れませんが、大して社会が変化していない2000年の昔、王朝が秦から漢に代わるだけで、急に人々が人道的なるとは思えませんので、秦の時代でも、罪人の扱いは、似たり寄ったりだった思います。
もちろん、当時の労働が想像を超えて過酷な事は間違いありませんが、ポルポト時代のカンボジアのような、労働者が死んだら、一カ所に穴を掘って埋めて、また別の人間を連れてきて、死ぬまで働かせるようなやり方ではありませんでした。
秦の人民が不満を爆発させた最大の要因は?
秦を滅ぼした最大の理由は、理不尽に厳しい、秦の刑罰でした。かつて、公孫軮により制定され、秦の国力を高めた法律ですが、始皇帝は、これを準備期間もなしに支配した六国の遺民に適応します。もちろん、対応できない六国では、秦の法に触れて罪人になる人々が続発彼らは残酷な秦の刑罰で、黥を入れられたり、足を切断されたり、鼻を削がれたり、また、強制労働で遠く離れた咸陽まで護送されて、強制労働に従事させられたりしました。
その頃、秦の法に触れて強制労働に服していた罪人は70万人はいたようです。2010年の日本の統計では、日本で服役している人は6万人です。秦の時代の中国の人口は2000万人と推定されますから、現代日本の人口の6分の1しかありません、でも罪人は11倍もいるわけです。
幾ら時代が違うとはいえ、余りにも多い罪人の数です。理不尽な法律の厳しさで罪人となる人や残された家族の苦痛は積み重なり始皇帝の死と同時に爆発したのです。
後に漢を建国する劉邦(りゅうほう)は、咸陽に入城すると複雑で厳しい秦の法律を三章に約してシンプルにしました。長い間、秦の法律に苦しんだ咸陽の人々は非常に喜んだそうです。150年も秦の法律に服していた秦人でさえ、そうなのですから、いきなり秦の法律を適用された六国の人々の不満と怒りは、それを遥かに上回ったでしょう。
始皇帝の子供
始皇帝には、子供が20名以上いたようです。その中で、公子が12名、公女が10名が、始皇帝の死後に即位した2世皇帝、胡亥(こがい)の命令により誅殺されました。殺されたのは、公子や公女だけではなく、その妻や子供、親戚まで殺されています。
また殺された公子や公女には、生母である始皇帝の妃がいた筈ですが、妃の名前は全て不明、公子・公女の名前も一部しか分かりません。史書には、始皇帝の死後、子供が無かった妃は殉死させられたという記録も残っています。始皇帝の子供で、名前が分かっているのは、たった四名です。
扶蘇(ふそ):始皇帝の後継者、宦官趙高と丞相の李斯の陰謀で死を命じられ自殺
公子高:始皇帝の子(何男かは不明)自ら自殺を願い出て子孫の誅殺を免れる
将閭 (しょうりょ):始皇帝の子(何男かは不明)2世皇帝の時代に殺害。
胡亥:2世皇帝、宦官趙高の口車に乗り即位、後に毒殺。
Wikipedia調べ
ハッキリしているのは、どうやら始皇帝の直系の子孫は、
公子高の子孫(戦乱を生き残っていれば・・)を除けば、
すべて絶えた可能性が高いという事です。
秦の始皇帝の後継者問題
始皇帝は、自分の後継者を長子の扶蘇と定めていたようです。こちらの扶蘇は冷酷で猜疑心が強い始皇帝と違い、善良で温厚な性格でした。しかし、扶蘇が性善説に傾く儒教を信奉し始皇帝の焚書坑儒を批判したので激怒した始皇帝は、扶蘇を北方で匈奴に対応している将軍、蒙恬(もうてん)の所へ飛ばしてしまいました。
その後、始皇帝は全国巡幸の途中で病気にかかり、遺書を書いて、扶蘇に自身の葬儀を行うように命じて死去します。父の葬儀を行うとは、後継者になる事を意味しています。
ですが、始皇帝の手紙を代筆していた宦官の趙高(ちょうこう)は、丞相の李斯(りし)を抱き込み、この遺書を偽造して、後継者を末子の胡亥(こがい)と書き換え、扶蘇には死を賜るとしました。
その理由は、この二人が実際に焚書坑儒を行い、それを支持した実行犯であり当然、扶蘇との関係が最悪、扶蘇が即位すれば失脚は免れないと危機意識を持ったからであると考えられます。しかし、実際に趙高が遺言書を書き換えたという証拠はなく伝聞でしかありません。或いは、趙高は始皇帝の遺言を忠実に実行したに過ぎないという説もあり、それは、根拠がない話でもありません。
元々、始皇帝が信奉した法家の思想は性悪説に立つものであり、人間は腐敗して堕落し、エコひいきをするものだと考えます。なので、人を信じない始皇帝は、儒教が説く聖人による人治主義ではなく法律を絶対の物差しにする法治主義を採用したのであり、この地点に立てば、統一された中国の支配者は、無能であっても、法を恐れ、守る人間であれば善いのです。
始皇帝は自身が信じた法に絶対の自信を持ち、この法が守られる限り、秦は千年続くと考えますが、胡亥を擁立して権力を握った法の執行者趙高は、秦の法を曲解し、自分に都合よく捻じ曲げました。こうして、厳しいだけでなく、公平さも失われた秦の法律は、千年どころか15年で秦帝国と共に滅んでしまうのです。
不老不死に憧れた始皇帝の生への執着
始皇帝の父、子楚は34歳で若くして亡くなりました。この事は、始皇帝に自分も若死にするのではないか?という恐怖心を与えたようです。それでも、秦王に即位してからの生活は多忙を極めており、自分の寿命を考えている暇はありませんでしたが、紀元前221年に天下を統一して目前の懸念が消えると、「自分はいくつまで生きられるのか?」という恐怖心に心を奪われるようになります。
始皇帝は、封禅(ほうぜん)の儀式を行い自身の即位の正当性を㏚した頃から神仙思想に傾倒するようになったようです。そこに、つけ込んだのが、方士や道士と呼ばれる怪しい連中で始皇帝に接近しては、金をせびり不老不死の法を探してくると言いなかなか豪華な暮らしぶりをしたようです。
そんな道士の代表が徐市(じょふつ:徐福)で、海の向こうに蓬莱山などの神仙が住む島があり、私に投資してくれれば、そこから千年を生きている神仙の安期正(あんきせい)を連れて戻ると言います。内陸で生まれ、はじめて広大な水たまり(海)を見た始皇帝は、その神秘性に魅了され、徐市の言い分を信じて多額の金銀財宝を与えて海に出て、神仙を連れてくるように命じました。
大金をせしめた徐市は、もちろん危険な海になど出ずに、風が強くて船が出せませんと言い訳して、投資金を元に贅沢に暮らしますが始皇帝は、何度か徐市に催促し、次第に疑い出したので、このままでは、命が危ないと考えた徐市は、少年少女数千人を、大船に乗り込ませて、海に出ていきました。
やがて、徐市は、日本に到着し、そこに定住、二度と中国に戻る事は無かったそうです。最初から、仙人など嘘っぱちで、死の恐怖に取りつかれた始皇帝を騙して、精々、金をふんだくるつもりだったのでしょう。
始皇帝の悪行として記録される焚書坑儒には、こうして、始皇帝を騙し、大金をふんだくったりした道士や、方士も含まれているようです。彼らは、逮捕されると、罪を逃れようと他人に罪をなすりつけ、累犯が460名に及んだと言います。猜疑心が強い始皇帝は、死の恐怖をネタに自分が騙されたと知って、怒りが収まらなかったのでしょう。
始皇帝はブサメンだった?
始皇帝の顔はどのように伝えられているのでしょうか?
秦始皇本紀によると、鼻は蜂のように尖り、胸は鷹のように突き出ており、声は犲(やまいぬ)のようであるとされています。決してイケメンではありませんが、恐ろしい顔ではあります。ただ、これは、始皇帝の死後に書かれた史記の記述であり、実際の始皇帝の顔の印象ではない事には注意が必要です。この容姿の記述の後には、他人に恩義を感じず、虎狼のように残忍という性格が描写されるので、顔は始皇帝の悪行を反映し逆算して創作されたと言えます。
では、本当の始皇帝はイケメンの可能性があるのでしょうか?いえ、それも、どちらかというと不細工であった可能性があります。それは、始皇帝が全国を巡幸した時に車から顔を出して回ったので、かつて秦に滅ぼされた六国の人々は、
「なんだ、始皇帝というから、鬼のような顔をしているかと思えばただのオッサンではないか・・」とあざ笑い、全国に自分の威厳を見せつけるどころか、逆に反乱の芽を育てたという話があるからです。本人は俺ってイケメンと思っていたかも知れませんが、他人から見れば、5割引き、6割引きの容姿だったのでしょう。すると世間一般の評価では、ブサメンだったのではないでしょうか?
始皇帝の命令に振り回される(笑)地方の史料発掘
2017年末の中国の新華社通信によるニュースによると、2002年に中国の湖南省の古井戸で見つかった36000枚に上る木簡中に始皇帝が不老不死の薬を探せと命じたものが含まれていたそうです。
布告は郡だけではなく、辺境の地域や僻地まで通達される全国規模のものであり、面白いのは、この木簡には返信があり、困惑する地方の声が記録されていました。ある村では、そのような妙薬はまだ見つかっていないが、引き続き調査していると報告し、別の村では、地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかも知れないと返信しています。それまでにも、村々には、様々な通達が出たでしょうが、不老不死の薬を探せには、さすがに当時の人々も困惑したのでしょう。こうして、始皇帝は地方を振り回していたのです。
始皇帝の墓(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑)
不老不死の妄想に取り憑かれた始皇帝ですが、同時に自身の死後を考え即位と同時に寿陵(じゅりょう)と呼ばれる墓を建設し始めました。この事は、別に珍しい事ではなく、王の陵墓は労働力と時間と金をふんだんに使うので、即位と同時に建設が始まり何十年後に完成するのが普通です。
しかし、始皇帝の寿陵は歴代の秦王の墓よりも規模が大きい上に、天下統一の事業が進む間にも、何度も計画が変更されて、その度に巨大化します。この巨大な地下宮殿の周辺は盗掘を阻止する為に銅で囲まれ、墓の内部にも石弓を発射する装置が備えられました。
死後には、死後の世界を支配したいと妄想した始皇帝の陵墓の中には水銀に満たされた100本の川が流れ、咸陽の王宮のように宮殿と楼閣が聳え天井には、当時の星の配置に習い天体図が描かれました。
さらには、死後の始皇帝に仕える為に沢山の宦官の俑(よう)が納められ、陵墓の周辺には、8000体と言われる、秦の兵士や将軍、戦車や馬の姿をした等身大の俑、兵馬俑(へいばよう)が埋められていました。また、兵馬俑に納められた馬車や武器、弓や矛などは、すべて本物であり、兵士一人一人の顔は実在する兵士をモデルに制作したリアルなものです。兵馬俑は、実際の軍隊の陣形を取り、戦闘態勢を維持しており、始皇帝の号令一つで戦争を開始できるようになっています。
つまり始皇帝は、死後も中国の帝王でありたいと願い、地下に死者の帝国を築き、そして、秦を滅ぼそうという敵に対しては、兵馬俑を指揮して、これを撃破する事を考えていました。
なにより圧巻なのは、始皇帝陵は38年の歳月をかけ、70万人の労働者を動員し、東西350メートル、南北345メートル、高さ76メートル、体積は300万立法メートルと巨大でありながら秦の滅亡により完成する事なく未完で放棄された事です。まさに、飽くなき欲望と権力欲のままに生きた始皇帝を象徴します。
その後も何十人と中国史に出現した皇帝でも、始皇帝陵よりも壮大な墓を持つ皇帝は終に出現しませんでした。最初にして最大最強の中華の皇帝こそ、始皇帝だったのです。
キングダムと始皇帝
キングダムは、週刊ヤングジャンプで連載している原泰久の漫画です。それまでは、始皇帝と言うと天下統一後の始皇帝が描かれる事が多く、また、伝統的な、始皇帝=権力に魅入られた暴君という悪役でしたが、キングダムでは、始皇帝による天下の統一前に時間を遡り、少年王として13歳で即位した秦王政が、500年に渡り乱れ続ける中華を一つの国として統一するという冒険アクションとして描きます。
従来、この時代は史料不足の為に、敬遠されたのですが、原作の原泰久は、オリジナルの人物と乏しい資料を最大限に膨らまし100名を超える登場人物に強い個性を与えていき、群像劇として見事に再生させたのです。一応、史実を踏まえた展開ですが、キャラクターの造形は漫画要素を優先歴史を逸脱したものが多く、春秋戦国時代をリアルに再現とはいきませんが文句なく面白いストーリー展開なので、中国史を抜きにしても、中華風の戦国ファンタジーとして楽しむ事も出来ますよ。
始皇帝と王騎
王騎(おうき)とは、漫画キングダムに登場する武将の一人です。怪鳥王騎の異名を取り、いずこともなく戦場に出現して、神速で敵を蹴散らすとして、各国から恐れられていました。
ただ、その容姿はグロテスク、、長髪で筋肉ムキムキの中年男ですが、唇が口紅を塗ったように真っ赤でおネエのような言葉遣いをし、口元に手を当ててココココと笑うというキワモノキャラとして、キングダムの初期から登場して、嫌なヤツとして気味悪がられました。
王騎は、元々、秦王政とは対立する一派や中立の立場でしたが、その正体が、伝説の秦の六大将軍の一人である事が明かされたり、名王だった秦の昭襄王の死後、即位する秦王の小者ぶりに失望して、一線を退いた事や、将来を誓っていた婚約者を武神 龐煖(ほうけん)に殺される等グロテスクな容貌からは想像できない悲しい過去が明かされるとキングダムファンの間で人気は急上昇、今では、キングダムを代表するレジェンド武将として認知されています。一度は前線を離れ、荒れていた王騎ですが、秦王政の瞳に、かつての主君昭襄王の姿を重ね合わせ、再び、将軍として戦いの場に戻るのですがその後については、漫画キングダムで確認してください。
始皇帝と信
信(しん)とは、漫画キングダムに登場する下僕階級の主人公です。元々は、幼馴染みとして育った孤児の漂(ひょう)と共に天下の大将軍を目指しますが、その幼馴染の漂が、秦王政の身代わりとして王宮に取り立てられ、政を暗殺しようとする一派に殺害されてしまいます。
その事は、秦王政の使者により、村で待っていた信にも告げられ、移動した信は漂にソックリの秦王政と対面するのです。以後、2人は、政は天下の統一を目指し信は天下の大将軍を目指し血みどろの中国大陸の戦乱に身を投じていく事になります。
こちらの信は、秦王政同様、実在の人物です。李信(りしん)という名前で史記に登場し、後年に始皇帝の命令で楚を攻略する命令を受け、蒙恬と出撃して、項燕(こうえん)将軍に撃破されて大敗したり、燕を滅亡させるのに手柄を立てるなど毀誉褒貶(きよほうへん)がある人物のようです。
ただ、通常は部下の失敗を許さず、容赦なく処分する始皇帝が、20万の大軍を率いて大敗した李信や蒙恬には、特に処分する事もなく赦している事から、李信と始皇帝には、他の武将にはない、特別な強い絆を持っていたのでは?と想定できます。恐らく、原泰久も、大敗しても始皇帝に処分されなかった李信の史実にインスパイアされて、少年時代から始皇帝と困難を切り開いた少年、信をイメージしたのではないかと思います。
始皇帝の映画
始皇帝(しこうてい)は、49年の生涯の全ての場面が強烈な光を放っている事から、史記が広く読まれている日中で多く映画の題材になっています。まだ、映画の黄金期であった1960年代には、座頭市で知られる勝新太郎を始皇帝に据えた日本映画、「秦・始皇帝」が上映されました。こちらは、中国統一後の始皇帝を描いたもので、万里の長城を一部再現するなどかなり壮大なセットを組んで撮影されています。
中国では、1989年に輪廻転生とタイムスリップを題材にした「テラコッタ・ウォリア 秦俑」が香港・中国合作でSFアクション映画として公開1996年には、史記の迫真描写で名高い、暗殺者荊軻と友人の高漸離(こうぜんり)との交流を描いた「異聞 始皇帝謀殺」が上映されています。
1998年には、秦王政と彼の愛妾の趙姫、そして、暗殺者荊軻の三角関係と愛憎を描いたラブ&アクションサスペンス、「始皇帝暗殺」2002年には、秦王の命を狙う架空の暗殺者の活躍を描いた武侠映画、「HERO」がそれぞれ封切られています。ジャンルもバラバラながら、一人の人物を巡り、これだけの映画が、たて続けに上映される点に、始皇帝という人物の時代を超えても尽きる事がない魅力とカリスマ性が見えますね。
再評価される始皇帝
始皇帝は、儒家を狙い撃ちしたと捉えられた焚書坑儒と僅か15年で王朝が倒れた事で、悪逆非道であった為に天に滅ぼされた暴君という否定的な見解が儒者によって生み出されました。
秦の時代の見るべき業績も、始皇帝が暴君である為に全て水泡に帰したというような扱いで、悪逆な振る舞いが王朝の寿命を縮めたとされるのです。おまけに、始皇帝が嫌った儒者は、次の漢王朝で国教化されていき、以後も歴代王朝が、儒教を保護したので、始皇帝の評価は以後2000年、最悪の評価で推移していくのです。
しかし、20世紀に入り、最後の王朝の清朝が倒れると、儒教の影響力が低下次第に始皇帝にも肯定的な評価が出てきました。清末民初の章炳麟(しょうへいりん)は「秦政記」にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったして、貧富や身分を解消した功績を見出し、もし始皇帝が長生きするか、または胡亥ではなく扶蘇が跡を継いでいたなら始皇帝は、古の三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高い評価を与えました。
日本の桑原隲蔵は1907年の日記で始皇帝を不世出の豪傑と評価しています。第一には、始皇帝の創始した郡県制が、王朝交代後も引き続き採用された普遍性の高い制度であった事や、不老不死への希求は、何も始皇帝だけに見られる事ではなく、当時の貴族の流行であったことや、
陵墓の造営も当時の慣習であり、造営しないわけにはいかなかった事、焚書坑儒の類は、始皇帝の死後も各王朝に見られる事であり、始皇帝だけの行為ではなく、また、思想の統一を図る上では、必要な政策であったと擁護しました。
中国の文化大革命時期には、政治闘争が法家思想と儒教思想の対立に転嫁し、毛沢東(もうたくとう)は孔子(こうし)を奴隷所有の貴族階級と非難、悪とし、逆に始皇帝を法家思想を体現し万民平等を志向する改革派として善であると評価しました。
これにより、当時政敵であった林彪(りんぴょう)を儒教的であるとして攻撃したのです。ただし、ここで展開された始皇帝の評価は、孔子を貶める目的で行われたどこまでも政治的な闘争で、なんら学問的な意味を持つものではありません。文革など形だけの政治利用の悲劇はあったものの、儒教のフィルターが取れた事で、始皇帝の評価は稀代の暴君から、先進的な改革を行い現代中国に繋がる礎を造ったが、改革が急進的でありすぎ、人民の不満と怒りを買い、王朝が短命で終わった人物とされるようになります。
確かに、兵馬俑一つをとっても始皇帝の権力なら、生きた人間を8000人、武装したまま生き埋めにする事も出来たでしょうが、それはせず、モデルを持つ素焼きの土人形で済ませたなどは、自身の墓とはいえ、無駄に人間を殺す事を善しとしなかった始皇帝の性格の一面を感じます。
始皇帝モンスト
始皇帝はアプリゲームであるモンスターストライクにも強力なボスキャラとして登場します。
モンスターストライクとは、手持ちのモンスターを召喚して平面マップで敵を撃破しながら、ボスを倒していくシュミレーションでMAP上には、敵キャラだけでなく、地雷やボムのようなトラップもあり単純に敵キャラを倒すだけではなく、倒す順番や、敵と味方の属性を見るなど戦略的な要素も必要になります。詳しい事はゲームをダウンロードしていただくしかありませんが、始皇帝は魔族キラーMを特性としてもっており、魔族属性を連れていくと、被ダメージが多くなるそうです。
始皇帝を考察したkawausoの独り言
始皇帝について可能な限り、多様な面から考察してみました。こうして、見ると始皇帝は単純な暴君として片付ける事も出来ず、単純に聖人や豪傑として見るのもありきたりに思えます。強いて一言で彼を評価するなら、始皇帝は太陽のようなものです。適度に離れていれば、その熱により体が温まり作物も実ります。ですが、近づくと、それは灼熱の地獄になり、全てを焼き尽くします。善も悪も桁外れに強力なのが始皇帝ではないでしょうか?
始皇帝については、秦の史料が、楚の項羽(こうう)の焼き討ちにより、ほとんど焼き払われてしまい、司馬遷(しばせん)の史記一択という状態なので多角的な資料が得られず、司馬遷のフィルターを通してしか、これを評価できないというきらいがあります。しかし、現実として、秦は、絶大な権力を持ちながら、始皇帝の死後、砂上の楼閣のように滅んだという事実があるので功績と同じくらいのマイナスを秦が抱えていたと言えるでしょう。
前述しましたが、私は、始皇帝が改革を急ぎすぎて、人民の合意を得られないままに、強引に事を進めた為に、死後は人民の支持を得られなかったと考えます。特に、評判が悪いのは、秦の厳しい法律を押し付けて、六国にあった慣習法を否定してしまったのでしょう。それまで、古老や公や侯のような貴族が治めていた土地に、官と言うキャリア官僚を送り込んで古老を放逐し、木で鼻を括ったような統治をし中央が命じるままに搾取した事も、人民の不信感を生みました。
陳勝(ちんしょう)、呉広(ごこう)の乱に遭遇した沛の県令は、いっそ独立して反乱軍に投じようかと部下に相談しますが、地方役人の簫何(しょうか)は、「あなたが命令しても沛では、子供一人動きません人望のあるしかるべき人物を将軍に立てるべきです」
このようなアドバイスをしていますし、項梁(こうりょう)が項羽と共に会稽で挙兵した時でも、郡守の殷通(いんつう)は人望がある項梁を将軍に秦に背こうとしますが、途中で項羽に斬殺されます。
こうして、考えると、始皇帝が鳴り物入りで導入した郡県制によるキャリア役人の支配は、当初はほとんど馴染まず、人民の不満の種になったのでしょう。劉邦は秦の失敗を糧にして、郡県制と封建制をMixした折衷案を採用していましたからね。始皇帝は個人としては、そこまで暴君でもないですが、導入した郡県制や法のシステムは、始皇帝の100倍も狂暴であり、自分を生み育てた秦を滅ぼしてしまったのです。
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