三国志の武将たちは、当然ながら既にその生涯に幕を下ろしています。しかし、誰もかれもが納得して閉幕したわけではない、というのはある種、仕方のないことかもしれません。
そのうちの一人、志半ばで生涯を閉じることになった武将、関羽。
その関羽の死因は、自身のプライドの高さによる呉との、部下との確執、侮りや驕りなどとは良く言われていること。正しく関羽はその性格によって命を落とすのですが、今回はそこに至るまでの経緯を少し詳しく話していきたいと思います。
この記事の目次
関羽、荊州を任されるのこと
スタートと言えるのは、劉備が蜀を手に入れてから。この際に張飛や趙雲、諸葛亮たちは益州に向かい、関羽は荊州を守る役目を任されます。もしかしたら既にこの時点で、関羽は「留守番」としての扱いに不満があったのかもしれません。
軍事総督に任命された関羽は、同じく守備を任されていた糜芳や士仁とはこの頃から既に折り合いが悪く、その折り合いの悪さは関羽が両者を軽んじた態度をとっていたためと言われます。
元より関羽は自分と同じ、もしくは上位の人間に対しての態度が良くないと言われていますが、この不仲が後々まで深く響くことになるのです。
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呉と繰り返される衝突、そして魯粛との対談
一方で、荊州を何とか取り返したい孫権。蜀と呉の間の緊張が高まる中、抗争が何度も起こり始めます。一度振り上げた矛を下ろすのは大変なこと、そこで動いたのが呉と蜀との講和派であった魯粛です。
関羽と魯粛との対談、単刀赴会の実現。この対談がどのようなものであったのかは……蜀書と呉書で「少々」違いがあるものの、ともあれ再び蜀と呉には穏やかな時間が訪れました。しかし、217年秋に魯粛が死去。再び両者の対立の時が迫ってきます。
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孫権と関羽、婚姻話の決裂から高まる緊張
魯粛の死後、新しく赴任してきたのは呂蒙。呂蒙はこの時は表面上は穏やかに関羽に接していましたが、内心ではしっかりと関羽を警戒していました。しかしこの時点で関羽の荊州の統治は行き届いており、呉の方からの動きはありませんでした。
しかしそこで持ち上がったのが孫権の息子と、関羽の娘との婚姻話です。これは婚姻で関羽を取り込もうとしたのか、それともあくまで両者の関係を良くしたかったのか、それとも別の意図があったのか。その意図は不明ですが、これを関羽自身が断ってしまったことで、孫権が激怒してしまうことになるのでした。
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関羽の樊城攻め、始まる
218年、関羽がついに動き始めます。樊城を守る曹仁を攻撃、水攻めと洪水による被害で援軍として駆け付けた于禁軍3万の兵を降伏させ、また龐徳は斬り、荊州刺史、南郷太守を降伏させ、樊城を完全包囲しました。
更に許昌では関羽の扇動による一斉蜂起が起きるなど、ここの関羽の攻勢は正に軍神。曹操も怯えて遷都を考えたほどです。まあこんな状態で落ちていない樊城が筆者的には驚きなんですが……。
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関羽の背後で広がる包囲網
しかし、樊城を完全包囲した関羽の包囲網が、背後で広がっていました。司馬懿と蔣済は和議を結んでいた孫呉に関羽を背後から攻撃させる献策を行い……呉主伝によると孫権からの申し出ともあるので、もしかすると孫権は余程関羽に怒っていたのかもしれません。
更に魏は援軍として徐晃に軍を率いて樊城に向かわせました。ここで魏と呉による関羽包囲網が始まったのです。
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関羽、渾身のタイミングで慢心
ここで呂蒙は自身は病気と偽って前線から離れました。後任の陸遜はわざと関羽に遜った態度を取ったため、関羽は陸遜を侮って呉への警戒を怠ることになります。更にここで降伏された多数の于禁軍が関羽を内部から苦しめることに……流石にいきなり三万もの捕虜を養う力が関羽軍はありませんでした。
ここで関羽、呉の軍事物資を無理矢理奪うのですが、もうこれは関羽と呉の関係に決定打を入れてしまったのではないでしょうか……慢心、驕り、ダメ絶対。
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関羽の最期と死因
孫権の命令で関羽への攻撃を開始した呂蒙と陸遜。彼らは糜芳と士仁の関羽との不仲を知っていたので、この関係を利用して二人を寝返りさせることに成功。
警戒していなかった呉、更に軽視していた味方に寝返りされ、更に援軍に来た徐晃とタイミングを合わせて樊城から打って出てきた曹仁相手に、関羽も撤退を選びます。しかし時すでに遅し。
更に関羽は使者を何度も呂蒙の元に送りますが、この際に呂蒙はわざと捕虜にしていた関羽の部下たちの家族を厚遇していることを使者に教えたため、やがて関羽の部下から多数の降伏者が出たこともあり、関羽は戦いを続けられず逃走、後に捕まって斬首となりました。
関羽の死因は、そのプライドの高さとも言われます。呉との関係を良くしておけば、少なくとも味方であった糜芳、士仁との関係を改善していれば、こうも連鎖的に追い込まれていくことはなかったのかもしれません。敵を侮っただけでなく、味方さえも軽視した、それが関羽の死因であると思います。
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三国志ライター センのひとりごと
関羽が樊城を包囲するまで、そこまでは正に軍神、凄まじい追い上げを見せてくれるのですが、その後の展開を知っていると驚きとともにどこかもの悲しさも覚えます。筆者の個人的な見方ですが、樊城包囲は、関羽と曹仁の違いを表しているようにも思えますね。
ここまで追い上げることができたのに結果として敗北した関羽。そしてここまで追い詰められたのに、不思議なくらい城が落ちることはなかった曹仁。それは運命なのかもしれませんが、もし関羽が普段の行動を少しでも改めていたら。
どうにも想像してしまうのでした。ちゃぷり。
参考:蜀書関羽伝 呉書呂蒙伝 陸遜伝
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